だからこそ3
ハルは白い病室にいた。
ボンゴレの息が掛かったその筋の病院に、ハルは一週間前に運ばれて来た。
当時は酷く衰弱しており固形物すら食べられない状態で、ほぼ流動食となっていた。
しかし今では綱吉達の看病のお陰で、徐々にハルの体力は回復の兆しを見せている。
但し、体力だけだ。
その精神は今でも身体から離れた所を彷徨っている。
瞬きやある程度の刺激反応はするものの、喋る事も視線を合わせる事もなかった。
ある意味植物人間状態なハルを、しかし綱吉達は毎日見舞いに来ていた。
「ハル、おはよ」
綱吉は、腕に抱えた大量の花束をハルの目の前に差し出した。
「今日は良い天気だよ。風が吹いてて気持ち良いし…窓、開けるな」
花束をサイドテーブルへと置き、かなり大きめに作られている窓を全開にする。
「お、ツナ来てたのか」
窓から優しく吹いてくる風に目を眇めていると、背後から山本の声が聞こえてきた。
「うん。今日の講義は午前中だけだったから。…獄寺君は?」
片手に寿司の入った紙パックを持ち、山本はハルを覗き込んで何やら話しかけている。
「あー、アイツならもうすぐ来ると思うぜ。何かマロンケーキ?いや、モンブランだったか?それっぽいのを買ってたからな」
「そっか」
綱吉はホッと息を吐いた。
ハルがこんな状態になってから、獄寺はしょっちゅう病室に足を運んでいた。
毎回ハルの好物を持参しては、手ずから食べさせている様だ。
「アイツも素直じゃねーからなぁ」
「まぁ、仕方ないよ。…で、ベルフェゴールの行方なんだけど」
綱吉の改まった口調に、山本の顔も引き締まる。
「何か解ったのか?」
「少しだけだけどね。山本の言った通り…。………ハル」
綱吉は言葉を途切れさせた。
その視線を辿り、山本も視線をハルへと向ける。
今までぼんやりと宙を彷徨っていたハルの視線は、綱吉達に向けられていた。
「ハル、オレ達が解るか?」
綱吉がハルを覗き込む。
しかし、それ以上の反応はなかった。
ハルがベルフェゴールという名前だけに反応したのは明らかだ。
「山本、外出ようか」
「おう…」
ハルの傍でベルフェゴールの名前を出すのはマズかったか。
自分の迂闊さに綱吉は歯噛みした。
山本をハルのいる病室から離れたベンチまで誘導して、其処で改めて話を切り出す。
「ベルフェゴールは日本を離れて、イタリアに戻ってる」
「マジかよ…」
「ザンザス達も行方を追ってるけど、それ以上は足取りが掴めない。ただイタリアにいる事だけは確かだと思うんだ」
「アイツ…本気でハルから離れたまま死ぬつもりなのか」
「多分ね。自分の死ぬとこ、好きな人に見られたくないって気持ちはオレも解るから」
「まぁ、な…」
綱吉が寂し気に笑う。
その顔に山本も小さく頷いた。
「でもそれじゃ、ハルは一生このままじゃねーか」
突然怒りを含んだ声が飛んできた。
顔を上げると、其処にはケーキを持った獄寺が立っていた。
「獄寺君…」
「このままベルフェゴールが死ぬと、ハルはもう元には戻らない。そうでしょう、10代目」
険しい表情の獄寺に、綱吉は痛ましげに「…可能性は、高いと思う…」と呟く。
「あんのヤロ…、絶対許さねぇ」
ケーキを山本に押し付ける様にして渡すと、獄寺は踵を返した。
「獄寺君!?」
「すんません、10代目。オレちょっとイタリアに行ってきます」
「ちょっ…」
言うなり獄寺は廊下を駆けて行ってしまった。
綱吉が止める間もなく、凄い速さで視界から消える。
「仕方ねーな。オレも手伝ってやるか」
「山本…」
腕に抱えたケーキを見下ろし、山本は苦笑した。
「一人より二人の方が早いしな。アイツ放っておくと、物騒なモンぶっ放しまくりそうだし」
「…有難う、山本」
「ツナは今日本を離れられねーだろ?その分オレ達が動いてやるさ」
「うん、オレもこっち片付けたらすぐ飛ぶから」
「おう」
綱吉は現在ボンゴレのボスとして、日本で教育を受けている。
いずれはイタリアへ渡らねばならないが、他のファミリーへの牽制の意味合いも兼ねて、日本にいなければならない。
時折、勉強の一環と称してイタリアへと足を運ぶ事もあるが、それはあくまで組織へと赴くだけだ。
誰かに会いにいく為だけに、あちらへ出向く事は許されていない。
ただ、今は大分情勢も落ち着いているから、事情を知っているリボーンに申請すれば恐らく1週間もしない内に動ける様になるだろう。
すぐに獄寺を追いかけた山本から渡されたケーキを持ち、ハルのいる病室へと戻って行く。
中に入ると、ハルは再び視線を宙へと飛ばしていた。
「ハル。獄寺君も山本も、皆心配してるよ」
ケーキの箱を開けると、中にはモンブランとチョコレートケーキが2つずつ詰まっていた。
ベッドの傍へと椅子を持ち寄り、静かに腰を下ろす。
箱の中に添えられていたプラスチック製のフォークを取り出し、ケーキを一口サイズに切り分ける。
ハルの口元へとそっとモンブランを持っていくと、無表情に口を開いた。
「早く、元気にならないとだね」
一人で咀嚼出来る様になったハルに、綱吉はそっと語りかけた。
獄寺と山本がイタリアへ渡って3日目。
ベルフェゴールが姿を晦ませて14日が経過していた。
ハルの状態は相変わらずで、二人からも芳しい報告は届かなかった。
毎日必死で探し回っているが、見事なまでに足跡が消えているという。
綱吉達は焦っていた。
スクアーロからの情報によると、ベルフェゴールの余命は残り少ないらしい。
一ヶ月保つか保たないかといった状態だと聞いている。
捜索の期限は、相当に短かった。
果たして間に合うのか…。
綱吉は祈るように毎回報告書を開き、そしてハルの病室を訪れていた。
今日もまた何時もと同じく、何の進展もなかった。
ハルに穏やかに語りかけてはいるが、その目は悲痛の色を帯びている。
そんな中、突然雲雀が病室にやって来た。
ハルが入院してからこっち、全く姿を見せなかった雲雀は黒のスーツを纏って現れた。
「ヒバリさん?」
「やぁ」
「今まで何処に行ってたんですか?」
確か彼はここ数日、大学の講義にも出ていなかったはずだ。
唐突に連絡が途切れたので、心配はしていたのだが――。
そんな雲雀は、綱吉の質問を綺麗に無視してハルの前に立った。
「三浦」
反応の無いハルに、しかし雲雀は続ける。
「何時までそうしてるつもり?」
「ヒバ…」
止めようとする綱吉に鋭い一瞥をくれ、雲雀はハルの顎を片手で捉えた。
自分の方へと顔を向けさせ、間近でゆっくりと告げる。
綱吉達がハルには決して伝えなかった言葉を。
「ベルフェゴールは死ぬよ」
綱吉はあげかけた声を呑み込んだ。
静かに告げられた言葉に、ハルが反応した為だ。
今までにもベルフェゴールの名前に反応を示した事はあった。
しかし、今回はそれまでの反応とは全く違った。
食べる時以外は決して開かれなかった唇が、僅かに震えて言葉を紡ごうとしている。
ぼんやりとした視線は、今や完全に雲雀を映していた。
その目がどんどん潤っていき、やがては目の端から零れ落ちて行く。
「ベル……、さ…が?」
待ち焦がれていたハルの声は、かなり聞き取りにくかった。
しかしハッキリとした意思を持って発された言葉だった。
雲雀はハルの顎から指を離す。
それでもハルの視線は雲雀から外れない。
「ベルさん、が…?」
「もう長くない。君はそれでいいのかい?」
こんな所で自分を見失っていて。
ベルフェゴールから遠く離れた場所で、闇に落ちたままで。
後悔するような事ばかりで。
本当に良いのか?
「嫌…で、す」
雲雀の言外に含まれた声に、ハルは首を左右に振った。
「ベルさん…に。会いたい、です」
掠れてはいたが、しっかりとした声だった。
漸く自分を取り戻せたハルの姿に、綱吉は雲雀を見つめた。
ハルをじっと見つめる雲雀の目は、何時もと同じく鋭く冷たい。
そこからは何の感情も読み取れなかった。
けれど、もしかしたら。
もしかしたら雲雀は――。
「沢田」
不意に名を呼ばれ、綱吉は思考を中断した。
「あ、はい」
「三浦を連れて行くよ」
「へ?何処へ…」
「彼のいる所に」
雲雀は簡潔に述べた。
けれどその内容は、綱吉の目を見開かせるに十分なものだった。
「ヒバリさん、ベルフェゴールの居場所知ってるんですか?」
「知ってる。二日前に見つけたから」
「!」
綱吉は思わず雲雀を凝視してしまう。
それでは、雲雀は今までイタリアにいたのだろうか。
あんなにもボンゴレの組織が躍起になって探していたというのに、たった一人で見つけてしまったという。
綱吉はこの時改めて、雲雀恭弥という男を尊敬した。
「有難う…有難う、ヒバリさん」
「君に礼を言われる理由はないよ」
冷たい反応だが、雲雀は元々こういう物言いをする人間だった。
綱吉は何度も礼を口にすると、病室を出て行った。
捜索を続ける人達に、朗報を知らせる為に。
残された雲雀は、ハルを見下ろしていた。
ハルもまた雲雀を見つめて泣いていた。
「ベルさんは…後どれぐらい……?」
ハルの質問に、雲雀は目を細める。
「2週間ぐらいかな。僕は医者じゃないから詳しい事は解らないけど」
「2週間…」
「随分と時間を無駄に費やした様だね。急がないと、本当に手遅れになるよ」
「はい…。私、馬鹿でした。自分の事しか見えてなくて」
ボロボロと零れる涙を無感動に見遣り、雲雀は溜息を吐いた。
「解ってるなら、早く動ける様になるんだね。今のままじゃ、彼の傍にいても足手纏いにしかならない」
「はい」
10日以上ろくに動いていないせいで、ハルの身体は上手く機能を果たせていない。
腕を少し動かすにも以前より反応が鈍く、時間もかかる。
泣いてはいたが、ハルはしっかりと頷いた。