だからこそ4
ベルフェゴールがこの場所に身を隠して、もう二週間が経とうとしていた。
森林の中にある、静かなログハウス。
最小限の電気しか引かれていない為、ほぼ忘れられていた別荘だった。
以前ベルフェゴールが密かに購入していた家屋で、ヴァリアーどころかボンゴレの情報網も届かない場所だ。
かなり痛みの激しくなりだした肉体に舌打ちし、以前の3倍の時間を掛けて扉を潜る。
指先の神経が壊死を始めている様で、物に触れても感覚が余りない。
なのに痛みだけは引っ切り無しに襲い来るのだ。
全く厄介なものだ。
「痛てて…」
小さく呻くも歩みは止めず、日課となっている散歩に出た。
木漏れ日が降り注ぐ中、ベルフェゴールは時折木の幹に背を預けては歩いて行く。
日に日に、身体が弱って行くのが感じられた。
歩く距離は短く、しかしかかる時間は長くなる一方だ。
それでも別荘に閉じこもる事はしない。
外に出れば気が紛れるというのも理由の一つだが、陽の元にいればハルを身近に感じられる為だった。
あの太陽の様な笑顔の持ち主は、今何をしているのだろうか。
自分が消えて悲しいと思ってくれているだろうか。
ハルを好きになって1年。
両思いになって2年。
同棲を始めて数ヶ月。
別れて2週間。
結構な年月が経っているはずだが、何故か全てが昨日の事の様に思い出せる。
ベルフェゴールは苦笑すると、首をゆるりと振った。
そうして再び歩き出す。
視界の開ける眺めの良い場所まで来ると、その場に腰を下ろした。
最近はこの場所で1日の大半を過ごしていた。
近くに家はなく、殆どが木々と草ばかりの景色。
その上に抜ける様な蒼い空が広がっている。
暖かな日差しに目を眇め、ベルフェゴールは口笛を吹いた。
ハルと一緒に良く聴いていた曲だ。
明るい、けれど何処かしんみりとした、心に染みる綺麗な音色。
「ベルさん、私この曲凄く好きなんですよ」
ハルの声が聞こえた。
やべ、とうとう幻聴まで聞こえる様になったのか。
そう思い声のした方へと顔を向けると、幻聴ばかりか幻覚までが見えていた。
「ハル……」
「はい、ハルです。こんな所にいたんですね」
幻覚はベルの声に反応して、返事をしてくれた。
そうしてそっと前髪を梳いてくる。
その感触に、漸く目の前の人物が幻覚なんかではないと知った。
「何でここにいるんだよ」
「ベルさんの傍にいたいからです」
即答で返してくる彼女に、ベルは言葉を失う。
以前は決してこの様な台詞は聞けなかった。
「オレは…居て欲しくない」
ベルフェゴールはふいっとそっぽを向く。
前髪で目が隠されていて良かった。
僅かではあるが確かに潤んでしまった目を、ハルには絶対に見られたくない。
「でも、ハルは傍にいたいんです」
ハルの指先が伸びて、ベルフェゴールの頬に触れた。
「帰れよ。日本には、オマエの大好きなヤツらがいんだろ?」
「います。とても大切な人達が沢山…」
「だったら―」
「でも、ハルは此処に居たいです」
ベルフェゴールの言葉を遮って、ハルは真正面から彼を見つめた。
「ベルさんの傍に、居たいです」
真剣な表情で言葉を紡ぐ。
そうして、自分から顔を寄せるとそっとキスをした。
あぁ、もう駄目だ。
ベルフェゴールは両腕でハルを強く抱きしめた。
薬が効いているのか、ハルが傍にいるからか、この時は何故か痛みを全く感じなかった。
ハルの唇を確かめる様に、貪る様に、何度もキスを繰り返す。
求めれば求める分、ハルもまた同じ様にキスを返して来た。
「ハル、オレはもうすぐ死ぬ」
キスの合間に、ベルフェゴールは告げる。
ハルは寂しそうに笑い、そしてベルフェゴールの顔を両手で挟んで頷いた。
「はい」
「それでも一緒に居てくれる?」
「はい、ベルさん」
「オレが居なくなっても、覚えててくれよ?」
「はい」
「忘れたら化けて出るからな?」
「はい、ずっとずっと覚えてます。ベルさんはハルの唯一人の王子様ですから」
ハルは笑っていた。
キスしている間も、話している最中も。
幸せそうに、笑っていた。
「ハル、オレ…」
「はい」
「すげぇ幸せ」
ベルフェゴールはハルを抱きしめると、そのまま草叢に転がった。
熱に浮かされる様にして、二人は抱き合った。
数え切れないぐらいのキスと愛撫を互いに施し、会えなかった時間を埋める様に求め合う。
頭上に輝く陽光は、そんな二人を祝福するかの如く柔らかく降り注いでいた。
ハルと一緒のベッドで寝ていたベルフェゴールは、屋外にある気配に目を覚ました。
それが誰なのかは解っている。
以前、一度だけ此処に来た者と全く同じだったからだ。
ハルを起こさない様にそっと身を起こし、ベッドから抜け出ると扉を開ける。
静まり返った木々の一つに、寄り添う様に気配を纏った影があった。
「オマエがハルを連れてくるなんてな」
「三浦が望んだ事だよ」
腕組みをしてベルフェゴールが出てくるのを待っていたのは、ハルを此処まで案内してきた雲雀だった。
「でもあのまま日本に居たら、すぐには無理でも何時かハルをモノに出来たんじゃね?」
からかう様にしししと笑ってやると、雲雀の眉が不機嫌そうに寄る。
「どうでも良いよ。三浦が望んだ、だから連れてきた。それだけだ」
「オマエもお人好しだよな」
ベルフェゴールは笑いを収め、肩を竦める。
「オレは、ハルをこのままあっちまで連れてくかもしんねーぜ?此処まで追いかけてきてくれた女を、わざわざオマエらの元に帰すのも悔しいしな」
「勝手にすれば」
半ば本気で考えていた事を、しかし雲雀は一笑して切り捨てた。
本当にどちらでも良いと思っている、そんな表情だ。
恐らく雲雀にとって、ハルが生きようが死のうがどちらでも良いのだろう。
生きていようと、ハルが雲雀に目を向けてくれる事はないだろうから。
嫌でもそれが解るぐらい、雲雀はハルに惚れていた。
以前、此処を探り当てた雲雀はベルフェゴールに冷ややかに言ったものだ。
君がこのまま逃げるつもりなら僕があの子を貰うよ、と。
「わっかんねー…。もしオレがオマエの立場だったら、遠慮なくハル奪ってるぜ」
ベルフェゴールは頭を掻いた。
「もし君が僕の立場だったら、そんな真似はしたくても出来ないと思うけどね」
冷淡に切り返され、ベルフェゴールは口をへの字に曲げる。
「成る程」
それだけハルのベルフェゴールに対する気持ちは大きいのだと、雲雀は言外に語っていた。
それはそのまま、彼の負けを宣言する言葉でもあった。
「後2週間もすれば、沢田達も此処に来ると思うから、それまでにどうするのか決めておくんだね」
用件は終えたとばかりに、雲雀はログハウスを一瞥するとそのまま木々の間に消えて行った。
その姿を見送り、ベルフェゴールは屋内へと戻る。
ベッドには熟睡しているハルの姿がある。
その姿を見つめ、ベルフェゴールは雲雀の言葉を反芻した。
「どうするのか…か」
ハルは眠る。
雲雀の気持ちも、ベルフェゴールの考えも、何も知らず。
安心しきった表情で、ベルフェゴールの傍にある。
「そんなの、決まってんじゃん?」
サラリとハルの長い髪の毛を撫で、ベルフェゴールは微笑を浮かべた。
それからの二人は毎日笑って過ごした。
壊死は指先のみならず身体全体を蝕み始め、痛みも日々大きくなる一方だった。
薬の量も日に日に多く、使用頻度も回数を増していった。
それでも幸せだった。
それでも笑っていられた。
やがて半身が完全に動かなくなり、日課の散歩も出来なくなり、寝たきりの日々を過ごす事になった。
それが数日続き、終にベルフェゴールは床から起き上がれなくなってしまった。
「ベルさん、痛みますか…?」
眠りにつく時間も長くなっていき、ハルの姿を捉える目も霞み始めていた。
「ん、だいじょーぶ」
安心させる様に笑ってみせると、ハルもまた笑った。
「もうすぐ食事出来ますからね。今日はベルさんの大好きなものですよ〜」
「たんのしみー。早く食いてぇ」
二人には解っていた。
恐らくもう今日か明日には、ベルフェゴールの命が潰えてしまう事を。
二人は他愛ない会話を交わした。
ハルの命名した、特製山の幸スープを食べながら、馬鹿話をして笑った。
最期の最期まで、ハルは幸せそうに笑っていた。
それがベルフェゴールにはとても嬉しかった。
無理矢理に笑っているものではなく、自然に零れる笑顔だったからこそ、嬉しかった。
「な、ハル…」
いよいよ死神が近いと感じたベルは、長年身につけていたナイフを一つハルに渡した。
そうして、ハルの耳元で小さく囁く。
ハルの目が見開かれた。
「はい。…はい、ベルさん」
その時、ハルは久しぶりに泣いた。
悲しみの涙ではなく、喜びの涙を流してベルフェゴールに口付けた。
綱吉達がログハウスに辿り着いたのはそれから三日後。
彼らは覚悟していた。
屋内には二つの亡骸があるかもしれない。
もしかしたらハルは再び心を手放してしまっているかもしれない。
それでも、例えどんな結末が待っていようとも、綱吉達は全てを受け入れるつもりで扉を開いた。
そしてそんな彼らを待ち構えていたのは、テーブルに突っ伏して眠るハルの姿だった。
「ハル…」
綱吉には一瞬彼女が死んでいる様に見えた。
傍にベルフェゴールの愛用していたナイフが落ちていたからだ。
けれど、ハルが血を流している様子はなく、そして彼女の身体は寝息に合わせて微かに上下していた。
「ハル」
もう一度呼びかけると、今まで眠っていたハルは眠そうに目を擦りながら身を起こした。
「ほぇ?」
寝ぼけ眼が部屋を彷徨い、やがては入り口に立つ綱吉達に照準が合う。
そこで何度か瞬きを繰り返し、ハッキリと覚醒した顔になる。
「あ、ツナさん…。皆さんも」
ハルは笑いながら立ち上がった。
ハルの手足には所々泥が付着しており、かなりの割合で薄汚れている。
部屋にいたのはハル一人。
そこに、ベルフェゴールの姿はなかった。
「ベルさんは、眠っちゃいました」
綱吉達の声無き疑問に応えて、ハルは静かに微笑んだ。
「ツナさん、ハルはイタリアに残ります」
「え…」
「ベルさんの傍に居たいんです」
ハルの視線は窓を越えて、空へと向けられていた。
「ベルさんの眠るこの土地に、居たいんです」
晴れやかな表情で笑う彼女は、綱吉達が今まで見た中で一番綺麗だった。