雲雀恭弥改造計画2
雲雀がおかしくなってから三日目が過ぎた。
処方箋は未だハルの手元にあり、その中にはしっかりとカプセルも転がっている。
ハルは迷っていた。
「あそこに入ろうか」
雲雀は指先をお洒落な喫茶店へと向けて言った。
最近出来たばかりの、ケーキが絶品と評判の女子学生に大人気の店だ。
二人は学校が終わると待ち合わせて、仲良く手を繋いで歩いていた。
所謂デートというものである。
「確か、以前行きたいと言ってたよね。まだ時間大丈夫なら、入ってみるかい?」
「はひ、良いんですか?」
「うん。ハルが行きたい場所なら、僕も行ってみたいから」
にこりと笑う顔に、ハルは胸が疼くのを感じた。
以前の雲雀なら、決してこんなは言わなかった。
勿論、こうして手を繋いで歩く事もなかった。
ましてやデートなんて、夢のまた夢だった。
ハルが猛烈アタックを仕掛け、何時の間にか傍にいる事を許されて数ヶ月。
雲雀恭弥という人間を知るには十分な時間が経ったけれども、甘い雰囲気とは無縁な付き合いだった。
寧ろ、付き合ってるというには、二人の間には何も無さ過ぎた。
それが、今は夢にまで見たデートなるものをしている。
シャマルの蚊に刺されたせいだとは解っているものの、ハルは今の雲雀ともう少し夢を見ていたかった。
ずっと憧れていた、恋人同士の他愛ないやり取り。
それにどれだけ渇望していたのか、今の雲雀と接して嫌と言う程思い知らされた。
一昨日まで鳥肌を立てていたこの笑顔や動作も、今では甘い余韻に浸らせてくれる大事なものだ。
けれど――。
ハルは湧き上がって来る罪悪感に、思わず拳を握り締めた。
喫茶店に足を踏み入れた瞬間、甘い匂いが漂ってくる。
お菓子の香りに、ハルの顔は蕩けた。
店内はやはり女子の姿が多く、友人同士できゃあきゃあ言いながら甘味を食している。
男子はどうやら雲雀一人の様だ。
「あの、ヒバリさん。やっぱり出ましょうか」
「どうして?」
「だって、男の人が…誰も」
「気にしないよ。ハルが居てくれるから」
雲雀は笑いながらハルの肩を抱き、ゆっくりとした歩調で空いている席へと誘導した。
白一色のテーブルに着くと、ウェイトレスが運んできたメニューを開く。
その影からそっと雲雀を伺うと、にこにことハルを見つめている視線とかち合った。
気恥ずかしく慌ててメニューへと目を落とすも、雲雀の視線は外れる事がない。
「ひ、ヒバリさんはどれにしますか!」
慌てた様にメニューを雲雀へと差し出すが、雲雀はそれに見向きもしない。
相変わらずハルに視線を当てたままだ。
「君と同じで良いよ」
「へ?」
その答えにハルは一瞬動けなくなった。
君と同じで良いよ。
その答えに、一瞬雲雀が元に戻ったかの様な錯覚を受けたのだ。
今の雲雀でも言いそうな台詞ではあるが、それは以前の雲雀も言っていた言葉だった。
面倒くさそうに、「君と同じで良いよ」と。
「どうかした?」
「いえ、何でもないですっ。それじゃ、モンブランと紅茶で」
メニューを閉じ、再びやってきたウェイトレスに注文する。
その際、店内の女子がチラチラと此方を見ている事に気付いた。
正確に言えば、彼女達は雲雀を見ていた。
店内唯一の男の姿というのもあるだろうが、一番の理由は恐らく彼の容姿だろう。
雲雀は文句無しの美形だ。
並盛中学では、その存在感から恐怖の対象として見られているらしいが、密かにファンがついている事をハルは知っていた。
当然、雲雀をよく知らない女子に至っては、思わず注目してしまっても仕方ないだろう。
よくよく思い返せば、先程のウェイトレスも雲雀を気にしていた気がする。
普段は我が事の様に誇らしく思ってしまうハルも、今は何故だか居心地が悪かった。
それはやっぱり、今の雲雀が本来の雲雀ではないからだろうか。
戻すのであれば早い方が良い事は解っている。
風紀委員長としての仕事は通常通りにこなしているが、普段の生活が今までと全く正反対なので、雲雀に不審な目を向ける者も少なくない。
このままでは、雲雀に迷惑がかかってしまうだろう。
それでなくても今のこの状況は、以前の雲雀にとって屈辱以外のなにものでもないに違いない。
「ハル」
ハルは自分の思考に耽っていたが、雲雀の声で我に返った。
「はひっ、何でしょう?」
「何、考えてたの」
雲雀は真顔でじっとハルを見つめている。
「あ、その…そろそろ学期末テストの時期だから、勉強しないとなーって」
「成績危ないのかい?良かったら、僕が見てあげようか」
アッサリと話に乗ってきてくれた相手に、ハルは安堵の息を漏らす。
観察眼が凄いのか勘が良いのか、雲雀は何かと鋭かった。
こういう所は以前の雲雀と全く変わっていない。
以前の雲雀も、ハルがデートに誘おうと近付いくと、大抵が話を切り出す前に断っていた。
「ヒバリさん頭良いんですよね。良いなぁ」
「そうでもないけど。ハルだって頭良いはずだけど…。ハルの学校ってかなりレベル高いし」
「毎回必死で勉強してるんですよー。それでも解らない所があったりしますし、お父さんに聞こうにも、最近忙しいみたいでちょっと困ってます」
「それじゃ、今度勉強みてあげるよ。こっちの試験はもう少し先だから」
「嬉しい。ハル、頑張りますね!」
ガッツポーズを決めたところで、漸く運ばれてきたモンブランにハルは目を輝かせた。
「美味しそうです〜」
早速フォークを片手にケーキをつつく姿を、雲雀は目元を和ませて見ていた。
「これも食べる?」
雲雀が自分の手元に置かれたモンブランを示すと、ハルはビックリした様に此方を見た。
「でも、それはヒバリさんのですし」
「僕はそんなにお腹減ってないから、紅茶だけで良いんだ。残すのも勿体無いし、ハルに食べて貰った方がケーキも喜ぶと思うよ」
雲雀は笑って皿をハルの方へと寄せた。
「でも悪いですよ…」
そう言いながら最初は手を出さなかったハルも、視界にちらつくケーキの魅力に耐え切れず、数分後にはとうとう二個目のモンブランに手を出した。
「ご馳走様でした!」
財布を取り出したハルを押し留め、全て自分で支払った雲雀にハルは頭を下げた。
「どういたしまして」
喫茶店を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
腕時計の針はもう夜の7時過ぎを示している。
二人はゆっくりと帰路に着きながら並んで歩いた。
今度は手を繋いではいないが、二人の距離はかなり近かった。
夜道でハルが転びそうになると、その前に雲雀が支えてくれる。
優しくて格好良くて頼りになる、理想の彼氏像。
今の雲雀は間違いなく、ハルが小さな頃に夢見ていた恋人そのものな人物になっていた。
本当に、夢みたいだ。
「ヒバリさん、今日は凄く楽しかったです」
「僕もだよ。――ねぇ、ハル」
「はい?」
「出来れば苗字じゃなくて、名前で呼んでくれないかな。ヒバリじゃなく、恭弥で」
「え」
思ってもみなかった相手の提案に、ハルは立ち止まってしまった。
「駄目かい?」
「いやその、駄目じゃないというか。寧ろ嬉しいですっ」
「良かった…」
安堵の笑みを浮かべ、雲雀はハルに一歩近付いた。
「ヒバ…恭弥さん?」
更に近付いた距離に驚き相手を見上げる。
外灯に照らされた雲雀の顔は、何処となく翳って見えた。
それが、以前の雲雀を思い出させる。
「黙って」
近付く顔に、ハルは目を閉じた。
瞬間、瞼の裏に雲雀の冷たい横顔が浮かび上がった。
「―――!」
唇が触れ合う寸前、ハルは雲雀の身体を突き飛ばした。
「……ハル」
「ご、ごめんなさっ…!」
両手を突き出した状態のまま、ハルは目に涙を溜めて謝罪する。
けれどそれは、相手に近付く事を許さない拒絶だった。
「……そっか。やっぱり、今の僕じゃ駄目なんだね」
寂しそうに笑う雲雀の顔に、ハルは弾かれた様に顔を上げる。
「気付いて、たんですか…?」
「うん。以前までの僕がどんな人間だったのかは解らなかったけど、周囲の人達の反応で何となく想像は出来たよ」
雲雀は肩を竦めて、それ以上ハルに近付こうとはしなかった。
「恭弥さん…」
「今の僕は、本当の僕じゃない。そうだろ?」
「……はい」
ハルは俯いて答えた。
今の雲雀の目を見る事は出来なかった。
さっきまでは、とろけそうな幸せの中にいた。
温かい愛情に包まれて、幸せ一杯だったのに。
……けれど、気付いてしまった。
事ある毎に、今の雲雀と以前の雲雀を比べている自分に。
今の雲雀を見て、以前の雲雀を思い出している自分に。
今の雲雀と過ごして、以前の雲雀を想う自分に。
「御免なさい…」
溜まった涙が溢れて落ちて行く。
その姿を、雲雀は黙って見ていた。
本当はすぐにでも涙を拭ってやりたい衝動を堪え、ハルを見ていた。
「ハル」
呼びかけると、怯えた様にハルの肩が揺らぐ。
雲雀は一瞬だけ迷った。
これを言ってしまうと、自分は消えてなくなるのだと解っていたから。
ハルと二度と会えなくなると知っていたから。
けれど、ハルは以前の自分が好きなのだ。
今の自分も確かに好きでいてくれただろうが、その次元が違うと気付いてしまった。
勘が鋭いというのは、どうやら良い事ばかりではないらしい。
苦笑すると、己の迷いを振り切る様に、右手を差し出す。
「僕を治す薬、持ってるよね。それ、くれないかな」
ハルの目が見開かれる。
ハルの鞄を持つ手が震えていたが、それはやがてゆっくりと動き出し、中から白い紙包みを取り出した。
処方箋と書かれたそれを受け取り、雲雀は微笑んだ。
この笑顔を見るのは、恐らく今日が最後なのだろう。
俯きかける自分を叱咤し、ハルは真っ直ぐに雲雀を見つめた。
「此処からなら、もう家は近いし大丈夫だね」
雲雀は30メートル奥にある三浦家を眺めた。
ハルが頷くのを確認すると、ゆっくりとハルの横を通り過ぎる。
その際、雲雀の手がハルの頭を一瞬だけ撫でた。
その手は直ぐに離れてしまい、ハルが振り返った時にはもう雲雀は背中を向けていた。
「さようなら」
雲雀は静かに別れの言葉を口にした。
後姿はゆっくりとだが、確実に見えなくなって行く。
今の雲雀の存在そのものを表しているかの様に。
今ならまだ間に合う。
追いつけば、今の雲雀を失わずに済む。
けれど、足は張り付いた様に動かない。
それがハルの心情を何よりも物語っていた。
ハルが好きなのは、やはりあの雲雀なのだと。
だから泣いた。
自分を確かに愛してくれた存在を失うという事実に、ハルは黙って涙を零していた。
やがて雲雀の姿が見えなくなっても、ハルはその場に立ち尽くしたままだった。
ハルは授業が終わると、何時もの様に並盛中の応接室に向かった。
扉の前で一瞬躊躇ったものの、何時もの通りノックを二回鳴らす。
程なくして、中から返事が上がった。
「失礼します」
礼儀正しく挨拶して室内へと入ると、目の前に雲雀がいた。
「ひっ」
予想外の近さに思わず口から悲鳴が飛び出た。
「何その悲鳴。失礼だな」
ムッとした表情と口調に、雲雀が元に戻った事を知った。
「だだだって、まさか扉の前にいるなんて思わなかったんですよ〜」
はぁー、と息を吐いて改めて相手を見上げる。
その不遜な表情は何時にも増して機嫌が悪そうに見える。
もしかしたら、この三日間の記憶が残っているのかもしれない。
ハルは冷や汗が流れるのを感じた。
「三浦」
「はひっ!」
低い声に思わず姿勢を正す。
そして目を剥いた。
唇に感じる柔らかい感触。
目の前にドアップで見える雲雀の顔。
「目ぐらい閉じたら?」
唇と離して開口一番に出た台詞はそれだった。
「い、いきなり何するんですか!!」
「キス」
慌てるハルを見下ろし、淡々と雲雀は答えた。
「して欲しかったんじゃないの」
「なななななな」
既に言葉になっていないハルの腕を掴み、雲雀はそのまま学外へと歩き出した。
「ヒバリさん!?何処行くんですか」
「喫茶店」
簡潔に返される答えに、ハルは目を白黒させた。
一体何がどうなっているのか解らない。
ただ、雲雀がどうやら怒っているらしい事は解った。
もしも記憶が残っているのであれば、怒るのは納得がいくのだが…。
何故に喫茶店へ?
疑問符だらけが浮かぶハルを連れて、雲雀は道をどんどんと進んで行く。
やがて辿り着いたのは、昨日来たばかりのあの喫茶店だった。
「ヒバリさんってば!」
店内へ入る直前、ハルは雲雀の袖を掴んで引き止めた。
「何」
「一体どうしたんですか?…この三日間の事、覚えてるんですか?」
「………」
雲雀は立ち止まり、ハルを見た。
そのまま無言でじっと眺め続ける。
「覚えてない」
やがてその口から紡がれた言葉に、ハルは力が抜けた。
「覚えてないって、全然ですか」
「だから何?」
苛々とした口調に、けれどハルはめげずに続ける。
どうしても知っておきたかった。
だから、此処で引く訳にはいかない。
「それじゃ、どうして此処に来たんですか?」
「………」
雲雀は眉を寄せて再び黙り込んでしまった。
ハルは雲雀の返事を待った。
それ程時間を置く事なく、再び雲雀の口が開かれる。
「彼から、僕宛に置手紙があった」
ハルの心臓が一度大きく鳴った。
彼とは恐らく、三日間だけ存在した雲雀の事だろう。
彼が、今の雲雀に手紙を残した?
其処に何が書かれてあったのかとても気になったが、恐らく雲雀は答えてくれないだろう事は察せられた。
「人に言われて行動するのは好きじゃないんだ。それが自分なら尚更だね。だから、僕は僕の思う通りにやらせて貰う」
手紙を読んでいないハルには話が見えない。
けれど、今の雲雀に逆らう勇気はとてもじゃないけれどなかった。
それだけ本気で怒っているのがひしひしと感じられたのだ。
「行くよ」
再び腕を引っ張られ、ハルは店内へと入って行った。
「何これ」
机の上に置かれていた手紙に、雲雀は眉を寄せた。
白い紙に書かれている文字は、どう見ても自分の筆跡だ。
けれど雲雀にはこんな手紙を書いた覚えはない。
そして、ここ三日間の記憶もなかった。
「……」
読んで行く内に、雲雀の眉間の皺は更に深く刻まれた。
その手紙には、三日間の自分の行動が細かく記されていた。
そうして最後に、ハルへの態度についての注意書きがあった。
『もう少し素直に行動しろ』
その文字を見た瞬間、手紙は引き裂かれて欠片を宙に舞わせていた。
「言われる筋合いはないよ」
手紙の内容を思い出し、雲雀は呟いた。
目の前には、美味しそうにケーキを貪る少女の姿がある。
モンブランを注文した時、冷ややかな声で「太るよ」と言ってみたのだが、落ち込みつつも食べるのを止めないのは流石だ。
…本当は少しだけ、三日間の記憶が残っている。
いや、記憶というよりは感情と言うべきだろうか。
ハルに対する自分の想いというものが、少しばかり柔らかく色を変えている。
恐らくはもう一人の自分の仕業に違いない。
忌々しいと思うと同時に、雲雀は自分自身に先を越された悔しさを噛み締めた。
「これからは、僕がリードさせてもらう」
ハルにとっては非常に嬉しい決意を、雲雀はもう一人の自分へ宣言したのだった。