流転せし邂逅に願いを




辺り一帯には霧が立ち込め、ほんの1メートル先ですら見えない程に視界が悪かった。
時間帯も深夜を疾うに過ぎており、通りを行く人影も皆無に近い。
そんな中を、乱れた歩調で歩く男がいた。
明らかに酔っ払いと解る、真っ赤な顔と酒臭い息。
彼は陽気なステップを踏みつつ、自宅へと向かっていた。
男は一見しただけでも、そこそこ裕福な家の者と解る身なりをしており、指先には金銀の指輪が幾つも嵌められている。
普通は護衛が付いてもおかしくはない身分だろうが、どういう訳か今は一人だ。
もしかするとお忍びで屋敷を抜け出したのかもしれない。
でっぷりと太った身体は如何にも鈍重そうで、もし何かあったとしても素早く対処出来るとは思えない。
全く以って無防備だ。
「………」
呆れた表情を隠そうともせず、そんな男を視線だけで追い掛ける影が一つ。
それは宝石店の屋根にぽつんと立っていた。
身動き一つせず、ただただ、じっと男を見ている。
濃い霧のせいで、地上を歩く男の姿等見えようはずも無いというのに、その目は男の位置を正確に捉えている様だ。
男の方はというと、その存在に全く気付く様子もなく、ひたすらに音痴な歌を霧へと披露している。
「ひで。耳障りにも程があるだろ」
影は呆れた様にボソリと呟き、フラリフラリとよろける男の姿に溜息を漏らす。
しかし僅かに開かれた唇は直ぐに引き締められ、全身を走る僅かな緊張感が、ゾッとする程妖しい笑みを彼の口元へと刻ませる。
「お、来た来た」
何処か嬉し気に呟かれた言葉は直ぐ様、とろりと霧に溶けて消えて行く。
彼が口を閉じたその瞬間、眼下を通り過ぎる男の鼻歌以外に物音は全く無くなった。
研ぎ澄まされた神経が、遥か遠方より飛来する気配を嗅ぎ付ける。
ゾクゾクと足元から立ち昇って来る歓喜に、黒いコートがまるで蝙蝠の様に広がって落下した。
着地音も軽いその者が目の前に立ち塞がった瞬間、男は初めてどろんと澱んだ目を見開いて立ち止まる。
「う、わ…っ」
「オッサン。こんな夜中に一人歩きなんて、身の程知らずも良いトコだぜ?」
ドシンと無様に尻餅を付いた相手を見下ろし、黒コートの影は低く笑ってその顔を覗き込む。
霧に濡れた彼の髪の毛は、微かに地上へ届いている鈍い街灯の光によって淡く照らされ、その金の色を普段より暗く見せていた。
その頭部に乗せられたティアラが、男の目を反射的に釘付けにする。
長い前髪のせいで目こそ見えないものの、どう見てもまだ若い少年の姿に、男はますます恐慌状態に陥って後ずさる。
「ひ…っ、まさか吸血鬼…!?」
「は?」
怯えた表情と共に投げられた言葉に、少年は頗る不機嫌そうな表情になると、男の足を遠慮容赦無くブーツで踏み付けた。
「何、誰が吸血鬼に見えんの?お前、目悪いんじゃね?」
膝頭を踏み砕かんばかりの力に、男はくぐもった低い呻き声を上げる。
「このオレが、せっかく助けに来てやったっつーのに。あーぁ、やる気無くした。…なぁ。この馬鹿、進呈しよっか?」
ニヤニヤと口元に歪んだ笑みを浮かべたまま、彼は背後に立つ2つの気配を振り返った。
何時の間に現れたのか、数メートル先に2人の人影が見える。
「……誰と、話を…?」
少年の足を退け様と両手で掴んでいた男が、怪訝そうな顔を霧の中へと向ける。
しかし、常人である男の目にはただ白い靄が映るのみ。
人の気配すら感じ取る事の出来ない男には、少年の双眸が何を捉えているのか等、知る由も無かった。
「ししっ。お前の命を狙いに来た奴ら。ま、あっちこそ正真正銘の吸血鬼ってヤツ」
「!」
楽し気な容貌を崩さない相手に、男は完全に顔を引き攣らせると猛然と暴れ始めた。
「は、離せ!離してくれ…っ!!」
「煩せー」
余りの情けない悲鳴に、少年は軽く眉を寄せると片足を僅かに上げる。
その隙に男は足を抜き取り、よろけながらも立ち上がった。
少年に踏まれていた膝はかなり痛むものの、今は足等よりも己の命の方が大事だ。
彼は転びそうになりながらも、その場から逃げるべく少年と霧に背を向けた。
「あー。大人しくしてりゃ、命ぐらいは助かったかもしれねーってのに。馬鹿なヤツ…」
猛然と駆け出した男の背を、少年の傍を通り過ぎた気配が追い掛ける。
チラリと見遣った先に、黒い髪の毛と紅い瞳孔が一瞬だけ見えた。
「追わないのかね…?」
男を追い掛けて行った小柄な肉体とは逆に、少年の目の前に立つ気配はそこそこ強大だった。
体格的には、先程の気配と然程変わりは無い。
しかし、明らかに年と経験を重ねた熟練者の空気を、この気配は纏っている。
「ししっ。さっきのヤツがどうなろーと、オレの知った事じゃねーし」
「理解出来ないな…。君は教会の人間だろう。人としてあるまじき行為だ」
「吸血鬼に人の理を説かれてもなー。第一、オレが手を出さねー方が、お前らにとっては好都合なんじゃねーの?」
両手をコートへ突っ込んだ格好のまま、少年は小さく肩を揺らす。
愉快で堪らないと、その顔は物語っていた。
恐らく少年にとって、自分の所属する組織の事等どうでも良いのだろう。
人が生きようが死のうが、それすらも興味の範疇外。
ただ、自分が楽しめればそれで良い。
そんな彼の全身から吹き荒れる闘気に、霧の中に立つ気配は、黒い影から人の姿へと己を変化させた。
「違いない。では、見逃してくれるのかな?我々の食事を」
何処にでもいそうな、何の特徴も無い、教師然とした風貌を眺め、少年はコートから片手を引き抜く。
その指先に光る小型のナイフに、吸血鬼はひっそりと目を細めた。
「どうやらその気は無い様だね」
「当ったり前じゃん。オレが何の為に、わざわざ出向いてやったと思ってんの?」
「先程は、あの男の命を救う為だと、そう言っていた様だがね」
「アレは建前。本音は別」
飄々とした返答に、吸血鬼は視線を少年の背後へと向ける。
彼の視線の先には、同胞である己の娘の背中が映っていた。
片手で男の首筋を掴み、その動きを止めている。
ピクリとも動かない男の指先に死んでいるものと思われたが、しかし、耳の奥に響く男の生命の鼓動音は未だ絶えていない。
「ハル、早くしなさい」
小声で囁かれた言葉に、娘の肩がビクリと引き攣った。
「はひ…。でも、お父さん」
振り向いた顔に揺れる双眸が、未だ決心が付かぬ事を表している。
人間に手を掛ける躊躇いが、霧を介して伝わって来た。
「何、さっきのお前の子供だったんだ?」
「あぁ。今日が狩りの初体験でね。本来なら、もうとっくに帰っている頃なんだが――…」
「オレが邪魔?」
「とてもね」
静かな会話に比例して、互いを取り巻く周囲の空気が徐々に重くなって行く。
ザワリと肌を粟立たせる闘争本能が、少年の愉悦に拍車を掛けた。
「ま、運が悪かったんじゃね?」
何気ない仕草で放たれたナイフが、吸血鬼の顔面を狙い、真っ直ぐな線となって襲い掛かる。
「仕方ない…」
溜息混じりに吸血鬼が呟けば、その姿は瞬時にその場から消えていた。
反射的にもう一本のナイフを引き抜き、少年がそれを頭上に翳す。
ギィン、と鈍い金物の擦れ合う音が辺りに響く。
「すげっ…。そんだけ爪が伸びるって事は、お前相当良い歳してね?」
「今年で128歳になる」
獣の持つそれとは異なる、刃にも似た鋭く伸びた爪を引き、吸血鬼は低く哂った。
頭上から降り注ぐナイフの群れを、二、三歩横へ移動して避ける。
続け様に放たれた武器は、全て片手で路面へと叩き落した。
「へー。見た目より老けてんだ」
「我ら一族の中では、若輩の部類に入るがね」
穏かな会話の最中でも、刃の煌きが止まる事は無い。
孤を描いて上空を旋回しているナイフに、しかし吸血鬼の跳躍がそれを上回る。
目標を見失った銀の鋼は、2秒前まで吸血鬼が立っていた地へと次々に突き刺さった。
「名前は?」
「人に尋ねる前に、自分から名乗るのが人間の礼儀だったと思うが」
「お前ってさ、吸血鬼の癖に良く人間の事知ってるよな」
「当たり前だろう。彼等は、大切な存在だ。我らを生かす命の源なのだからね」
「ししっ。凄ぇオレ好みな性格してるよな、お前らって。ま、いいや。特別に教えてやるよ。オレはベルフェゴール。ボンゴレ教会のヴァリアーに所属してる」
「ヴァリアー…。あのエリート組か」
「そ。結構有名っしょ。吸血鬼狩りのトップクラスとして―――な?」
片手にナイフを握り締め、一気に吸血鬼へと間合いを詰める。
その腕が掴まれたのは、態とか偶然か。
鼻先が擦れ合わんばかりの距離に、吸血鬼の目が見開かれた。
「…もう一人、居たのか…」
口から吐き出される血液を、ベルフェゴールは口をへの字に曲げて避ける。
グラリと傾ぐ身体を支えてやる事はせず、そのまま一歩退く。
それだけで、吸血鬼は路面へと前のめりに崩れ落ちた。
「信じらんね。何、人の獲物横から掻っ攫ってるワケ?」
地に伏せている吸血鬼の背中からは、十字架を模した大きな杭が刺さっている。
血の泡を吐きながら呻くそれから視線を上げると、同じ組織に属する人物と目が合った。
黒髪に黒い瞳、黒いスーツを着こなすその姿は、殆ど黒一色で仕立て上げられている。
黒の青年は欠伸を噛み殺すと、ベルフェゴールの質問には答えず、視線をツイと吸血鬼へと落とす。
「まだ息があるね。なかなかしぶとい…」
「もう長くねーだろ。ってか、まだ名前聞いてなかったってのに、これじゃもう喋れねーじゃん。エース君、もうちょっと加減しろよなー」
あーぁ、と全身を痙攣させている吸血鬼を見下ろし、ベルフェゴールは腰を屈めた。
「でもま、楽しかったぜ?邪魔されたのは気にいらねーけどさ。…あぁ、もう聞こえてねーか」
ベルフェゴールの言葉が届いているのかいないのか、吸血鬼は霞む視界を前方へと向けている。
その方向には、成金男を追い掛けた子供の吸血鬼が居る筈だ。
彼は声にならぬ叫びを其方へ短く発すると、次の瞬間には大量の血を吐いて絶命した。
「―――!!」
ベルフェゴールの背後から、悲痛の声が聞こえて来る。
「もう一匹いるの?…吸血鬼にしては、やけに弱々しい気配だけど」
黒の青年が眉を潜めて呟く。
細められた双眸は霧の中へと向けられており、今にももう一つの気配を片付けに行ってしまいそうだ。
「ストップ。エース君はもう一匹殺ったんだから、あっちは譲ってもらうぜ」
「君の言葉に従う気は無い。…と言いたいところだけど、今回は譲歩してあげるよ。これより弱いなら、大して楽しくもなさそうだしね」
眠い、と再び欠伸を漏らし、黒の青年こと雲雀恭弥は既に死体となっている吸血鬼を見遣った。
地に伏せた吸血鬼の身体は、指先から徐々に砂へと変化して消え掛かっている。
人間と違い、吸血鬼という存在は死体の残らぬ存在だった。
細かな粒子となった肉体は、やがて風に吹き飛ばされて散り散りに消えて行く。
「ししっ。エース君のそういうとこ、本当おもしれーよな」
ナイフを片手で弄びながら、ベルフェゴールは踵を返す。
濃度が幾分薄くなり、辺りが見易くなった霧の中をそのまま足早に進んで行くと、やがて成金男を組み伏せている少女の姿に行き当たった。
「何だ、まだ生きてんだ?」
必死の形相で此方を見ている男に、ベルフェゴールは小さく口笛を吹く。
男は何事かを叫ぼうともがいているが、少女の片手がその軌道を押さえているせいで声が出ない。
そればかりか、指先一つ動かないところを見ると、吸血鬼特有の金縛り的な能力でも使っているのだろう。
その吸血鬼である少女は、青い顔色で此方を睨んでいる。
「ハル…つったっけ?お前、そんなんじゃ生き残れねーぜ」
ベルフェゴールの揶揄に、しかし彼女は今にも泣き出しそうな表情で首を振った。
「卑怯です…っ。二人掛かりでなんて!」
「………」
吸血鬼に似合わないその台詞に、ベルフェゴールは絶句する。
片手にしていたナイフが、余りの馬鹿らしさに指先から滑り落ちそうになった位、思わず身体から力が抜けそうになった
「えーっと…。お前、馬鹿?」
「なっ!」
サラリと口にした侮蔑の言葉に、少女の顔色は青から赤へと変わる。
吸血鬼より寧ろ、人間らしいその反応に、ベルフェゴールはナイフを懐へとしまった。
「殺し合いに卑怯も何もないじゃん。お前ら吸血鬼だって、複数で人間襲ってんだぜ?」
「そ、それは…」
「実際さっきだって、お前ら2人がかりでソイツ殺そうとしてたんじゃねーの?」
ベルフェゴールは、少女が馬乗りになっている男を指差す。
明らかな動揺が、ハルと呼ばれた少女の目に宿る。
それが能力にも影響したらしく、男の身体を戒めていた力が急速に衰えて行く。
動ける様になった己の腕に気付き、男は全力で小柄な身体を突き飛ばした。
「きゃっ」
小さな悲鳴と共に地面に転がったハルは、しかし再び逃げ出した男を追う事は出来なかった。
目の前に立っているベルフェゴールの存在が、急激に重く意識に圧し掛かって来た為だ。
吸血鬼としては未熟にも満たない、未だ保護者の存在が必要な状態の彼女にとって、吸血鬼狩りに慣れた少年の放つ気は恐怖以外の何物でもない。
顔を上げる事すら出来ず、頭上から注がれる視線と圧力に、ただ震えながら死を覚悟するしか無かった。
両手を拳の形に握り締め、ハルは固く唇を噛み締める。
そんな彼女を見下ろしたまま、ベルフェゴールは嘆息して試しに放出していた殺気を引っ込めた。
「つまんね。お前、本当に吸血鬼?実は人間でしたっていうオチじゃねーだろうな」
「……ハルは、吸血鬼です」
「ならもうちょっと抵抗すれば?父親の仇を取るとかさー」
「…っ」
父という単語に、ハルの紅く染まった瞳孔が見開かれる。
恐怖は未だに拭えずにいるものの、それでも沸き起こる怒りが少年を睨むだけの力を与えた。
吸血鬼特有のその色合いに、ベルフェゴールは深く笑みを刻む。
「ししっ。その気になった?」
一歩、少女へと足を踏み出したベルフェゴールは、しかし直ぐに蹈鞴を踏む事になる。
「絶対…」
震えた声と、少女の頬を伝う透明な雫に、自然と目が惹き付けられた。
「絶対、許しません…。何時か、必ず貴方を殺します」
大粒の涙を拭う事無く、少女は立ち上がるや否や、その姿を小さな蝙蝠へと変化させて空へと舞い上がる。
キィキィと、羽ばたく度に聴こえる鳴き声がそのまま彼女の叫びに聞こえ、ベルフェゴールは逃げるその姿にナイフを振り翳す事も忘れ、その姿が視界から完全に消えるまで見送っていた。
「吸血鬼も、泣くんだ…」
彼女の消えた空へポツリと呟かれた言葉は、何故か虚ろに胸に染みる。
そのせいか、過去の嫌な記憶を思い出しそうになり、ベルフェゴールは瞼を一瞬落とすと成金男が逃げた方角へと足を向けた。
「面倒くせーけど、一応口止めしとかねーとな」
ふと気を抜けば、封印した筈の映像が浮かび上がって来る。
それを振り払う為にも、わざと足音を立てて路面を進んだ。


それが、二人の出会い。
そして、これから紡がれる物語の始まり。







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