旋律は繋がりて









入江正一が手を引いて連れて来たその子供は、何故か酷く興味津々な表情で此方を見ていた。
大きさからして、恐らくは4〜5歳程度だろう。
肩で丁寧に切り揃えられた髪の毛が、少し動く度にサラサラと揺れている。
「…それ、あんたの子供?」
違うとは解っていたが、面白半分で聞いてみると、正一は僅かに口端をへの字に曲げて溜息を吐いた。
「白蘭さん曰く、そうなるらしいね」
「へぇ。その年で…」
しかめっ面になった彼の顔が楽しく、口元を手の甲で押さえて笑いをやり過ごす。
それに気付いたのか、正一はますます苦々しい表情で子供を見下ろした。
「血は繋がっていない」
「うん、見れば解るよ。同じ日本人の様だけど…全然似てないし」
子供の目線に合わせるように身を屈め、自分より大分小さな顔を覗き込む。
モスカを検分する時と同じ接し方ではあったが、子供は大きな目を更に見開いてじっと凝視を返して来た。
まさに食い入るという表現がピッタリなその視線は、逆に此方をたじろがせるに充分な威力を発揮してくれる。
瞳孔がはっきり見えるぐらいの距離感。
何時の間にか更に詰められた間合いに軽く瞠目して、スパナは危うく口にしていた飴を喉に詰まらせるところだった。
「しょー…だれ?」
子供が不思議そうな声音で、振り返りながら正一に尋ねる。
漸く外された視線に、止めていた息を静かに吸い込む。
奇妙な緊張感が、身体を強張らせていた。
まるで人間ではない、かといってモスカの様な機械でもない、得体の知れない何かを相手にしているかの様な、そんな不安定さが目の前の子供から感じられる。
「スパナだよ。ロボットを作っている人」
「すぱ……。ろぼ…と」
正一の答えを、子供がたどたどしい言葉使いで復唱する。
この年齢にしては言語能力が些か低い様にも感じられるが、余り勉強はさせていないのだろうか。
もしかしたら身体的、或いは精神的な何がしかの理由でもあるのかもしれない。
「モスカを単純にロボットと呼ぶのは止めて欲しいな」
子供の近くに落ちていたドライバーを拾い上げ、近くに置かれていた箱の中へと無造作に放り込む。
元々中に入っていた他の器具とぶつかりでもしたのか、ガシャンと甲高い金属音が部屋に響いた。
口ではああ言ったものの、特別気分を害した訳では無い。
この行動も普段通りの振る舞いだ。
それは正一にも解っているだろう。
だがその物音に驚いたのか、行動に怯えたのか、又はスパナの言葉に全面的な否定を感じたのか、子供の方は正一の影に隠れてしまった。
「悪かった。はるに説明するのには、これが一番解りやすいと思ってね。…この子はまだ、余り世間を知らないから」
正一が子供の頭に手を置いて軽くポンポンと叩く。
その動作に少し安心したのか、はると呼ばれた子供は嬉しそうに、正一の足に両手を回してギュウとしがみ付いた。
「まぁ、良いけど。その子供、この地下施設から出した事は?」
「無い。…その必要も、無いからね」
その言い回しに不自然な淀みを感じた物の、敢えて追求はせずにおく。
自分が口を出すべき領分では無いと、スパナは即座に判断していた。
「それで、何故うちに?此処は子供の遊び場には不適切な場所だと思うけど」
様々な器具が散らかっている室内からはるへ視線を向けると、小さな顔が再び此方を向いた。
そして凝視。
一度定まった目線は、まるで観察でもしているかの如く、1ミリ足りとも揺るがない。
それ程にスパナが珍しいのだろう。
この組織の中では、特別に珍しい顔立ちをしている訳でも、奇抜は服装をしている訳でもないのだが。
一時は怯えて正一の影に隠れた子供が、再びそろりと一歩を踏み出して全身を現す。
「あぁ、それなんだけど…。この子――はるを少しの間で良いから預かっていてくれないか?僕はこれから外に…、会議に出向かないといけなくてね。今、他に信頼出来る人間が近くに居ないものだから、君にしか頼めないんだ」
「…うちはブラックスペルだけど?」
「構わない。君はホワイトスペルに所属する者だからと言って、はるを痛めつけたりはしないだろう?」
「確かに、そんな趣味はないね」
「そう、それが重要なんだ。それに…君は、殆どをこの部屋で過ごしている。外出も、滅多にしない」
言葉に含まれた意味を汲み取り、スパナの片眉が僅かに上がる。
「つまり、この子をずっと見ていろと」
「申し訳ないけど、そうなるな」
正一の返答に、小さく息が漏れた。
「子供なんて相手にした事ないのにな…」
困惑をそのまま顔に乗せて正一を見遣ると、不意に袖を下から引っ張られる。
視線を下へ向け、子供が服を両手で掴んでいるのを見て取ると、スパナは今まで両手に嵌めていた手袋を抜き取った。
先程感じた得体の知れない緊張感を思い出し、一瞬だけ躊躇いはしたものの、正一がした様にその頭をそろりと撫でてみると、思った以上に柔らかな手触りが返って来た。
手の平に伝わる子供の体温に、心の中で何かが溶け出すのを感じる。
「はるは頭が良いから、そんなに手は掛からないと思う。2〜3日だけ、頼むよ」
「2、3日…」
なるべく乱暴にならない様に、慎重な手つきではるの頭を撫で続ける。
不慣れでぎこちない動きながらも、気に入ってくれたらしく子供の顔が喜びに輝いた。
「はる。スパナの言う事聞いて、ちゃんと良い子にしているんだよ」
スパナの手に心地良さそうに目を細めていたはるが、扉に手を掛けている正一を振り返る。
「しょー…お、しごと?」
「うん、お仕事。直ぐに戻って来るから、待ってて」
「………わか、た」
悲し気に下がった眉で、しかしはるは小さく頷いて片手を振って見せた。
「いって、らっしゃ…い」
「行って来ます。…それじゃスパナ。後は、宜しく」
スパナがはるを預かるという任務は、正一の中で既に決定されているらしく、抗議の余地を与えてはくれなかった。
断ろうとした言葉はそのまま喉の奥に引っ込み、つっかえた様に全く出て来ない。
「……迎えは早めに来てよ」
仕方無くそう返すと、正一は安堵した様に笑って部屋から姿を消した。
彼が後ろ髪を引かれる面持ちをしていたのは、多分目の錯覚ではないだろう。
という事はつまり、それだけこの子供を大事にしているという事だ。
「じゃぁ……えっと、はる――だっけ」
何時までも服を握り締めたままの子供を見下ろせば、はるはじっと閉まっている扉を見つめていた。
親に置いて行かれた様な子供の姿に、スパナは続けようとした言葉を飲み込む。
沈黙の寂寥感が、小さな身体からヒシヒシと伝わって来た。
…もしかするとこの子供は、正一以外の人間とは余り接した事が無いのかもしれない。
開く事の無い扉に自分もまた視線を当てながら、スパナは再びはるの頭に手を置いて思考を巡らせる。
実情はどうであれ、正一の子供という立場に在るのであれば、そう簡単に組織の人間の前に出るとは考えにくい。
そこそこ成長しており、自分の身を自分で守れるぐらいの力を付けた年頃ならともかく、まだ年齢的にも精神的にも幼いから尚更に不安要素が強いだろう。
ミルフィオーレという同じ組織に所属しては居ても、ホワイトスペルとブラックスペルとでは仲が良いとは言えず、他愛ない小競り合いからやや深刻な闘争まで、割と頻繁に起こっている。
そんな中、わざわざ自分の弱点ともなる存在を、公に暴露する様な馬鹿は居ない。
特にホワイトスペルのトップクラスに位置している入江正一は、この組織の中でも一番に敵が多い人物だ。
組織の長である白蘭の信用が厚いという点のみならず、その存在自体が非常に不確定要素を多く含んでいるのだから。
付き従う手が多ければ多い程、逆もまた然り。
その分、反発の度合いも大きくなる。
そんな人物が、ブラックスペルである自分を頼らざるを得ない程、身近に信頼出来る人間が今現在居ない状況なのだとすれば―――。
「本当に2〜3日で済むのか、疑わしいな…」
呟きがスパナの口から自然に零れ、それに呼応する様にして服を掴んだままのはるの両手に力が篭った。
「しょー、かえって、こないの…?」
扉を向いたままの目が不安気に揺れている。
今にも泣きそうなその表情に、スパナは慌てて作業着の内ポケットから飴を一つ取り出した。
「いや。約束は守る男だから、必ず戻ってくる。ただ、少しだけ遅くなるかもしれないって話…」
柄じゃ無いと自分でも思いながら、宥める為にはるの頭を撫でて飴を差し出す。
薄紅色の甘い匂いをした飴が、透明なビニール越しにはるの鼻腔を擽った。
「きれい。キラキラ…」
部屋の蛍光灯に反射するその飴を受け取り、はるは目を輝かせて光に高く手を翳して笑う。
「美味いから食べてみなよ」
元気が出たらしいその様子にホッとし、スパナは自分も新たな飴を取り出して口に銜えた。
横目で子供の姿を視認しつつ、付けっぱなしのメインコンピューターに手を伸ばそうとしたが、はるが口を大きく開けて飴を食べようとしている姿に思わず目を見開く。
「え…。いや、ちょっと待った」
袋ごと口に突っ込もうとしていた手を直前で掴んで止めると、素早くビニール部分を破って邪魔な箇所を取り除いてやる。
「?」
そんなスパナの行動が今一解らなかったのか、はるは首を傾げてその動作を見ていた。
「そのままじゃ食えないし。…飴、もしかして食べた事ない?」
「あ、め…。………キャンディ?」
懸命に言葉を考える様子に、自然と小さく笑いが漏れる。
まるで教師にでもなった気分だ。
「そうそう、キャンディ。はい、これなら大丈夫」
袋の無くなった飴を差し出すと、はるは口をぱっくりと開けてそのまま飴に噛り付いた。
ガリリと奇天烈な音が、スパナの耳を突く。
「………」
手の内に残ったのは白い棒のみ。
飴がくっついていたはずの先端は、見事なまでに消え去っていた。
「凄い技だ…。いや、本当に凄いのは歯の方か?」
くっきりと歯型の残った白い棒をくるくると回しながらはるを見遣ると、頬をハムスターの様に膨らませた顔が目に入る。
大人向けの飴はこの年齢の子供には流石に大き過ぎた様で、舐めるのに一苦労している様子がありありと解る。
「んむ、む…むー…」
「……はる」
奇妙な呻き声を発している子供の口を開けさせ、中に詰まっているとしか形容が出来ない飴を取り出す。
それを自分の口の中へ放り込み、今まで自分が銜えていた方の棒付き飴は代わりにはるへと持たせた。
「今度は棒から取らない様に。口の中に全部入れないで、棒をしっかり持って少しずつ舐めていくんだ」
スパナの丁寧な教えを受けたはるは、一度だけ大きく頷いて言われた通りにしっかりと両手で棒を掴んだ。
「すぱ…、しょーみたい。すぱも、はるの、おとうさん?」
輝く目を向けられたスパナは、呆気に取られた表情ではるを見下ろした。
「此処は違うと、ハッキリ言って良い物か…」
返答に迷い視線を床上に彷徨わせる間も、はるは期待に満ちた目でスパナを見上げている。
一向に逸れない視線の重圧に負け、スパナは溜息を吐いて床に腰を落とした。
「そうだな…。入江正一が居ない間だけ――その間だけ、はるのお父さんだ」
そう答えた途端、はるの顔が一気に近付いて来た。
続いて身体に小さな衝撃が伝わる。
「すぱは、おとうさん。はるのおとうさん!」
嬉しそうに飛びついてきた身体を受け止め、スパナはぼんやりと視線を扉へと向けた。
「この歳で、父親と呼ばれる事になるとは思わなかった…」
コロコロと口の中で飴を転がし呟きつつも、それ程悪い気はしていない自分に気付く。
「すぱー」
片腕にすっぽりと収まってしまう小さな身体に、嘆息して扉から視線を外した。
どうせ正一が帰って来るまでの短い期間だ。
そう割り切れば、滅多に出来ない経験を楽しむ余裕も出る。
ほんの少し、僅かな時間。
スパナはこの日より、期間限定の父親となった。







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