旋律は繋がりて3







「しょー、これなに?」
はるが両手に広げて持って来たのは、イタリアで発行されている青年向け雑誌だった。
あられも無い姿でポーズを取っている女性が、これでもかとわんさか載っている、所謂エロ本という代物である。
「ブッ」
飲んでいた珈琲を盛大に吹き出し、正一は雑誌に視線を止めたまま全身を固まらせる。
「………何処で見つけてきた?」
何とか言葉を紡げる様になったのは、凡そ30秒後。
はるの手から素早く本を取り上げ、勢い良く雑誌を閉じた正一の顔は正しく茹蛸の様になっていた。
「すぱのへや。…しょー、おねつ、あるの?かお、あかい。まっかー」
小さな手を伸ばしながら、はるは心配そうに見上げて来る。
正一はその頭を撫でながらも、雑誌を丸めて片手で握り潰すと、はるの顔を覗き込む。
「いや、大丈夫だ。それよりはる、これは大人の読み物だから、はるは見ちゃいけないんだよ。次からは、見つけてもページを捲らない事。いいね?」
「はひ?それじゃおとなになったら、よんでもいいの?」
「……う、それはまぁ。また大人になってから…。それよりはる、もう勉強の時間だろ?ちゃんとやるんだぞ」
「はーい」
言葉に詰まりながら適当に誤魔化すと、はるは大人しく頷いて机に落ち着いた。
深く追求されない事に安堵しつつ、その様子を横目に部屋を横切ると、正一は既にグシャグシャになっている雑誌を片手に猛然と部屋を駆け出て行った。


「スパナ!」
相手の了承も得ずに自動扉を潜ると、薄暗い室内で青年が一人ノートパソコンを弄っている姿が目に入った。
「…ん。あぁ、正一。どうしたの」
「どうしたもこうしたも無い!はるに妙な物を見せるんじゃない!!」
「うちが見せた訳じゃないよ。はるが本を見つけたんだ」
「同じ事だろう。何故止めないっ」
正一は握り潰したままの雑誌を床に投げ付けると、スパナの胸倉を掴んで前後に揺さぶりを掛ける。
「別に見せても問題無いと思うけど。はるはまだ子供だし」
「その子供に見せる事自体が問題なんだ!はるに変な悪影響が出たらどうするんだ!!」
間近で怒鳴る正一を不思議そうに見つめ、スパナは一向に悪びれた様子も無く、ポケットを探り飴を取り出した。
襟元まで締め上げられているのだからそれなりに息苦しいだろうに、一向に構う事なく飴を口に含むスパナに正一は呆れるしかない。
「この状態で良く飴なんて食べられるな…」
「そんなのうちの勝手。それより、悪影響って例えばどんなの?」
左手でスイとパソコンを自身から遠ざけ、スパナは再び正一に視線を合わせた。
全く動じないその態度と言葉に、正一は思わず言葉に詰まって目を宙に泳がせる。
「例えば…って、それは、その…」
「早熟にそっち方面の知識がつくとか?」
「あ、あぁ……」
「ふぅん」
部屋に入って来る前から既に赤かったが、更に色味が加算された正一の顔を見遣り、スパナは掴まれたままだった胸倉を簡単に解いた。
急に払われた手に軽く驚く正一を尻目に、スパナは片手を伸ばすと床の上に転がっていた雑誌を拾い上げる。
「はるには早目に、そっち方面の知識を仕込んで置いた方が良いと、うちは思うけど」
無残にも皺々になってしまっているそれをゆっくりと広げながら、スパナがポツリと呟く。
「は?」
思いがけない相手の言葉に、正一は思わず自分の耳を疑った。
今こいつは何と言ったのだろうか。
「はるは女の子だから。年頃になる前に、自分の身は自分で守れる様に、男っていう存在をちゃんと教えておいた方が良いと思う。この組織、女もいるにはいるけど、殆どが男ばっかりだし」
スパナは淡々と言葉を綴ると、漸く広げられる様になった雑誌を電光に翳す。
紙はその性質上、一度皺が付いてしまうと、二度と元には戻らない。
目を細めて広げた頁を眺めるも、元は美人だった女性の顔は、今や歪みに歪んでとてもではないが見られた物では無くなっている。
「すまない…。気に入っていたのか、それ」
しげしげと雑誌を見つめ続けるスパナを見て、正一は気まずそうに謝罪した。
が、スパナはアッサリと首を左右に振って軽く流す。
「別に。そんなに使ってなかったし」
「…さり気無く生々しい事言うな、お前…」
正一は嫌そうな表情のまま、改めてスパナの面をじっと眺め遣る。
まさかスパナが其処まではるの事を考えていたとは、正直意外だった。
頭は切れるが、機械の事しか興味が無いと思っていただけに、驚きも倍増である。
確かに、はるのこれからを考えるのであれば、スパナの言い分は一番理に適っている事だった。
そう簡単に理性を飛ばす様な輩はそれ程居ないとはいえ、巨大な組織の中では全てに目が行き届くはずも無い。
ましてや、ブラックスペルとホワイトスペルの対立も激しい最中、何が起こるか解らないのも事実。
はるの様な器量の良い少女が対象であれば尚更だ。
今はまだ子供だという事と、その存在を知っている人間が限られている事から、何の心配もしていなかったのだが、年頃の娘になればそうもいかなくなるだろう。
それならば、出来る限りの危険は事前に教えておくべきだ。
「スパナは案外、父親に向いているのかもしれないな…」
流石に一ヶ月近く、はるの父親兼教師役をやっているだけの事はある。
正一の口から漏れたそんな呟きは、しかしスパナの耳には届かなかった様だ。
彼は広げたばかりの雑誌を捻り潰し、ダストボックスへと無造作に投げ込んでいる。
「新しい雑誌、取り寄せようか」
礼の意味も込めて正一が提案すると、これまたスパナは首を振って断りを入れた。
「ううん、要らない。今は、はるがいるし」
「…ちょっと待て。それはどういう意味だ」
不穏な空気と共に、正一は再び目の前の胸倉を掴み上げる。
先程までの、尊敬の念にも似た感心の情は、最早一気に消し飛んでいた。
「お前、まさかはるをそういう目で――」
「少し落ち着きなよ。うちは、はるの世話で手一杯で、そんな事してる暇が無いって意味で言ったんだけど」
「………あ、あぁ。そういう意味だったのか」
スパナの説明に一瞬、虚を突かれた様な顔をした正一も脳が理解を始めた途端、慌てて両手を引っ込めた。
二度も引っ張られたせいで、かなり緩んでしまった襟元を軽く直し、スパナは浅く溜息を吐く。
「正一。前々から思ってたんだけど…あんた、はるの事になるとネジ飛び過ぎ。ちょっと異常だよ」
「…悪かった」
神妙な顔付きで項垂れる相手を見遣り、スパナは飴の無くなってしまった棒切れを指先で弄ぶ。
「別に謝って貰う必要もないけど、一つ聞いても良い?」
「何だ?」
「正一って、ロリコンだったりする?」
棒の先と共に唐突な質問を向けられ、正一は怪訝そうな表情を返した。
「何馬鹿な事を言ってるんだ」
別段、誤魔化している訳ではないらしいその態度に、スパナは目を一度瞬かせると向けていた棒を引っ込める。
「成る程…。対象は、唯一人に限定される訳だ」
クルリと棒を一回転させながら、スパナはそれだけを呟くと後は黙り込んでしまう。
「スパナ…?」
数分が経過しても反応が無い事に焦れた正一が、口を開いて初めてスパナは再び此方へと視線を向けた。
「ん」
「さっきの質問の意味は?」
「あぁ、うん。正一は、はるの事を大事にしてるんだなって思って」
口元に小さな笑みを刻んで、スパナは再びパソコンへと向き直る。
「当たり前だろう。はるは………」
そう言って口篭る正一をチラリと見遣り、スパナは片手でキーボードを叩き始めた。
それに合わせて、近くに置かれていたモスカの体内から妙な音が聞こえ始める。
「……邪魔してすまなかったな。そろそろ失礼するよ」
「ん」
短い返事と共に、背を向けたままのスパナを部屋に残し、正一は踵を返して部屋を後にした。




この辺りは本当に人気が無いのだと、静まり返った廊下に改めて認識させられる。
それだけに、人との接触を余り持たないスパナや、人との関わりを制限されているはるにとっては、とっておきの通路なのだろう。
「参った、な」
正一は前髪を掻き上げ、深い息を吐いた。
はるのこれからについての計画を、早めに考えねばならない事を指摘されたせいもあるが、予想以上にスパナがはるに想い入れている事が解ったせいだ。
忙しい自分の代わりに面倒を見てくれている事を感謝しているし、その考え方には色々と勉強させられる事も多いが、これは少々拙いのではないだろうか。
それが例え、父親という立場としての感情であったとしても。
「はるは、泣くだろうな。あんなに懐いてるし…」
スパナとは二度と会えないと宣告した時、少女がどんな顔をするのかが容易に想像がつく。
今すぐでは無いとはいえ、何れは二人を引き離さねばならない。
恐らく今の状況であれば、その時期はそう遠くないだろう。
憂鬱に滅入る気を振り払う様に顔を上げ、はるの部屋に続く扉に手を掛ける。
「はる。捗って………」
無理矢理に笑みを作って部屋に入ると、机の上に向かっている筈の子供は、何故かソファに座っている白蘭の膝の上にいた。
「正チャンお帰り〜」
笑顔でヒラヒラと片手を振っている青年に抱きついたまま、はるは安心しきった表情でぐっすりと眠っている。
机の上には開かれたままの教本が数冊。
書き込まれている文字量からして、正一が部屋を出てから直ぐに白蘭はこの部屋を訪れたのだろう。
「白蘭サン、何でいるんですか」
「お言葉だねぇ。久しぶりに時間取れたから、はるに会いに来たんだよ。もう1ヶ月も会ってなかったしね」
「あぁ…もうそんなになりますか」
一ヶ月前。
丁度、スパナとはるを引き合わせた頃だ。
正一は顔を僅かに顰めて頷く。
「はる、随分と成長したね。これもスパナ君のおかげなのかな」
「…っ、はるから聞いたんですか」
「うん。もうこの30分の間、終始、彼の名前で一杯だったよ。少し妬けちゃった」
「すみません…」
深く頭を下げると、クスクスと軽い笑い声が届く。
「別に正チャンが謝る事ないじゃん。君にはるの面倒みて貰う様に頼んだのは、僕なんだし」
機嫌の良い声に、しかし正一はヒヤリと背筋を粟立たせる。
白蘭の言葉を、額面通りに受け取るなんて事は出来る筈も無い。
一向に上がらない頭に目を細め、白蘭はソファの肘掛に頬杖をついてはるの頬を指先で撫でた。
「んー…びゃく。や」
擽ったいのか、眉を顰めて寝言を漏らすはるの様子を面白そうに眺め、その小さな身体をそっと抱き寄せる。
「良いってば。これからは僕も頻繁に会いに来るつもりだし、はるは何れ僕の傍に置く事になるんだから。…スパナ君に会えるのも、今の内だけだしね」
「はい」
漸く顔を上げた正一は、真っ直ぐ自分を見つめて来る視線を受け止め、その言葉をしっかりと脳裏に刻み込む。
何も知らないはるは、白蘭の腕の中で寝たまま。
これから先訪れる別れに気付く事もなく、幸せそうな寝顔を正一に見せていた。







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