旋律は繋がりて4









最近、部屋にやたらと本が増えた気がする。
原因は言わずもがな、ベッドの上でゴロゴロと寝転がっている子供だ。
最初は勉強と称して持ち込んだ参考書だけだったのだが、気付けば子供向けの童話や御伽噺等が収録された書籍も床の上に積み重なっていた。
「………」
明らかに大学生向けだろうと思われる参考書と、世界でも有名な白雪姫の絵本を両手に、スパナはじっとそれらを見比べていた。
これらはどちらとも、はるが今現在読んでいるものだ。
「はる。勉強、何処まで進んだ?」
余りに差が有り過ぎる2冊の本を片手に纏め、先程から楽し気にシーツに包まって遊んでいる子供を振り返る。
ベッドから引き剥がされたシーツは、無残にも皺が数え切れない程刻まれてしまっていたが、スパナは特別咎め様とはせずに、ただ質問の答えを待っていた。
はるはひょっこりとシーツの隙間から顔だけを出して、床の上に広げたままの教本を指差す。
「うーんと。472ぺーじ、まで」
「…昨日よりかなり進んだな」
「はひ。あしたまでに、ぜんぶおわらせるよていだから」
にぱっと楽しそうな表情を浮かべて、シーツに包まったまま再び転がり始める姿を眺めると、スパナはチラリと教本の残頁数を見遣る。
一見しただけでも、軽く100頁は越えていそうな程に分厚い紙の束が片側に見える気がするのだが、これは自分の気のせいではないのだろうか。
「本当に1日でこれを…?」
「やるよー。びゃくがくるまでに、おわらせる」
何て事はないといった表情で、はるがこくりと頷く。
見た目相応に言動はかなり幼いが、その実頭の回転はかなり早い子供は、勉強を苦にした事は一度も無かった。
それは、この部屋で黙々と集中して本を読んでいる姿からも解る。
気付けば7〜8時間通しで勉強している事もザラだ。
何度かはるが教本に書き込みを行う所を見たものの、スパナでさえ首を捻る様な数式をサラリと解いていた。
はるは頭が良い。
掛け値なしのその事実は、一緒に過ごしていれば嫌でも解る事だ。
だが、それと喋り方が比例しないのは、一体何故なのだろうか。
実際のところ、紙面に書き留める文字は筆跡こそ幼いものの、既に大人の書く論文並の文章力である。
言葉を知らないという訳ではないのだ。
「はる――…」
教本を床の上に戻して振り返ると、子供は芋虫の様に床に転がっていた。
「何やってんの」
「おちたー」
けらりと笑うはるに溜息を吐くと、スパナはその横に腰を落ち着けた。
「頭は打ってない?」
「だいじょうぶ。すぱ、それよりこれ」
小さな頭にそっと手をやると、はるは近くに放り出されていた本の山から一冊を引き抜いて此方へと掲げる。
教本とは比べ物にならない位の薄い冊子のタイトルは、日本語で「眠り姫」と書かれている。
「ん」
「よんで」
「…昨日も読まなかったっけ?」
「うん。もういっかい」
グイグイと押し付けられる冊子を受け取り、スパナはその表紙を静かに眺めた。
何処にでもある、ごくごく普通の童話の1つだ。
魔女の呪いによって長い眠りについてしまった姫を、試練を乗り越えて辿り着いた王子が、たった一度のキスをするだけで目覚めさせると言う、スパナにとっては何とも言い難いお話である。
童話は数多くあれど、はるはこの話を特別好んでいた。
自分でも読めるはずだというのに、何故か夜は決まってスパナの口から直接聴きたがる。
表紙を捲ると、子供向けの絵で、幸福そうな姫君が皆に囲まれて笑っているシーンが目に入った。
「昔々、あるところに――」
ゆっくりと読み始めた言葉は、どうも物語を読んでいる様には聞こえない。
その原因は恐らく、教師が生徒に教える説明的な口調のせいだろう。
ハッキリ言えば、寝物語を聞かせるには、スパナの朗読は余りにも下手だった。
それでもはるは、毎晩の様にせがんでいた。
嬉しそうな表情でスパナの膝を枕に、眠りに落ちるまでスパナの口から語られる話に耳を傾けている。
大抵は読み終わる頃には既に寝ており、本日もまた例に漏れず、スパナの膝上でうつ伏せになって目を閉じていた。
「こんな所で寝たら風邪引くって、毎回言ってるのに…」
音を立てない様に本を置くと、小さな身体をそっと持ち上げる。
その瞬間、はるの両手がスパナの服を掴む。
「や!」
「はる?」
怒った様な口調に視線を落とすが、その両目は依然として閉じられたままだ。
「寝言か…」
ふ、と息を吐いた途端、前触れも無く扉が開いた。
苦々しい表情で室内に入って来たのは、はるの本当の保護者である正一だ。
彼はスパナの腕に抱えられている子供を見て、更に表情を歪めた。
「迎えなんて、珍しいな」
ボソリと呟いたスパナに、正一は緩く首を振る。
「いや、明日は早起きしないといけなくてね」
「はるが?」
「あぁ。予定変更で、白蘭サンが朝の内に来る事になったんだ」
だから連れに来たのだと、正一は無言で両手を差し出す。
「………」
スパナは子供を正一の手に委ね様としたものの、未だその手が自分の服を掴んでいる事に気付いて動きを止める。
正一もそれに気付いたらしく、小さな指先を解く様に、そっとはるの手に自分の手の平を重ねた。
その感触に安心したのか、はるの手はスンナリとスパナの服から剥がれ落ちる。
それが妙に物寂しく感じられ、スパナは視線をはるから外した。
「悪い、スパナ。その本も取ってくれるか?」
はるを両手でしっかりと抱きとめた正一は、視線だけで床上の教本を示す。
言われた通りに拾い上げると、正一の指示通りにはるの腕に持たせる形で置いておく。
「こっちは持って行かなくて良いのか?」
足元にある眠り姫の冊子に指先を向けると、正一の目が微かに見開かれた。
「…はるは、まだそれを読んでいるのか…」
「うん。毎日1回は読んでると思う」
スパナの返答に正一は暫し迷う素振りを見せ、しかし結局その頭は左右に振られる。
「いや、良い。明日はどうせ読む暇もないだろうし」
用事は済んだとばかりに出て行こうとする正一を、スパナは黙したまま静かに見送った。
機械音と共に閉まった扉を見つめ、床の上に再び腰を落ろす。
置いてけぼりの冊子を片手にベッドに背中を預け、そのまま視線を宙へと流す。
「La principessa che dorme...」
正一の腕に抱えられて部屋から去ったはるの姿が、先程まで読んでいた姫君の姿と被って見える。
―――もしもはるが眠り姫だとするならば、王子は果たして誰になるのだろうか。
突然湧いたそんな馬鹿げた考えに、自然と笑いが漏れる。
「でも、もしそうだとしたら、恐らくは…」
呟きは途中で切れて消える。
続きは、何故か口に出来ないまま。




はるを自分の部屋で寝かしつけた直後、正一は自室で通信画面と向き合っていた。
時刻は既に午前0時を回っている。
窓の無い部屋は電光で明るく、時計で確認しなければ、とてもそんな時間には見えないだろう。
「はるはもう寝た?」
画面越しの声に、正一は一度頷く。
「はい。9時過ぎには既に」
「良い子だねぇ。あぁ、でも5歳ぐらいならそれでも遅い方なのかな?」
「さぁ。何分子育ては今回が初めての経験なものなので、僕には良く解りません。…それに、はるはまだ5歳にはなっていないでしょう。生まれてまだ1年も経過していないんですから」
「うん。でも外見的にはそれぐらいでしょ」
「そうですが…」
「頭は大人並以上の頭脳だけどね」
「………」
クスクスと笑う白蘭の言葉に、正一は不意に口を噤んだ。
先程から妙に腹部が痛んではいたが、それは徐々にエスカレートして最早激痛に変わっている。
表情にこそ出さないものの、通信を始めた当初から硬かった正一の表情は、更に硬度を増して今や完全に強張っていた。
「心配?明日の事」
「当たり前です。正直に言えば、まだ―――早過ぎる。最低でも、1年ぐらいは待つべきです」
「それは君の計算で出した結論なのかな?」
「…はい」
「ふーん。ま、正チャンがそう言うんなら、本当は素直に聞いておきたいところなんだけどね」
ソファの肘掛に頬杖を付き、白蘭は口元を緩めて僅かに目を伏せる。
「残念だけど、時間がないんだよね。限られた時間は後20年と少ししかないから」
「…20年?」
「そう。はるの寿命。彼女は恐らく、25歳までは生きられない」
怪訝そうな正一に、白蘭は一つの現実を突きつける。
相当な衝撃が彼に襲い掛かった事は、見開かれた目を見れば考えるに容易い。
正一は反射的に椅子から立ち上がり、机に両手を叩き付けていた。
「な…っ。そんなの、初耳です!」
「うん、僕も今日までは確信が持てなかったんだ。実験を頼んでいる人…えーっと、名前なんだっけ。忘れちゃったけど、彼が今までのデータを元に報告してくれたの」
呑気な台詞とは裏腹に、白蘭の表情からは笑いが消えている。
正一もまた、腹痛など完全に忘れ去ってしまっていた。
「それは、確実なんですか?本当に、はるは…」
「多分ね。この分野に関してのエキスパートが言うんだから、間違いはないと思うよ」
「………そんな」
再び押し黙ってしまった正一に、白蘭はチラリと視線を向ける。
その目の中に、一瞬だけ憐れみにも似た色が浮かんだが、俯いている正一は気付かない。
「だからこそ、早くはるを成長させておきたいんだ。少しでも長く、僕の傍に居て貰う為にも…ね」
囁かれた最後の言葉に、正一は顔を上げて画面を見据える。
「どれぐらい、成長させる予定なんですか?」
「まぁ、取り合えずは10歳ぐらいかな。一気に大人にすると、細胞が追い付かずに全体のバランスが崩れる恐れがあると言われたからね。それで暫くは様子見って感じ」
「そうですか…」
まるで白蘭を睨んででもいるかの様な正一の表情に、画面の中の男は面白そうに口を歪めた。
そんな表情をしている事に、恐らく本人は気付いていないのだろう。
その証拠に、唇の端から流れている血の滴りを拭おうともしていない。
無意識に噛み千切られた唇が、痛々しい肉の色を表面に露出させていた。
「明日は、長い一日になりそうですね…」
「そうだね。だから僕もそろそろ寝ておくとするよ。お休み、正チャン」
「…お休みなさい」
プツリと切れた通信画面が、無機質な黒色へと変わる。
そんな画面に映った自分の顔を、正一は食い入るように見つめていた。




部屋に入っても、灯りは点けないでおく。
耳に届く小さな寝息を絶やさない為にも、足音もなるべく立てない様に注意して部屋の中を横切った。
薄暗い室内でも白いシーツに包まれたベッドは直ぐに見つかり、其方へと歩み寄って行く。
膨らんでいる毛布は避けてベッドに腰を下ろすと、体重分だけギシリとスプリングが音を上げた。
熟睡しているのか、その音ではるの目が開く様子は無い。
安堵の息を漏らすと、正一は眠っている子供の頭に片手を置いて、ゆっくりと優しい手付きで撫でた。
サラサラと細く滑らかな髪の毛の感触が、指先にとても心地良い。
こうしてはるを初めて撫でたのは、もう2ヶ月も前だっただろうか。
白蘭が突然、はるを部屋に連れて来たのも。
「建前上、君の娘って事になってるから。宜しくね」
にこやかな笑みでそう告げた白蘭の顔が、今でも記憶に残っている。
あの時の驚愕は、恐らく一生忘れられないだろう。
「はる。僕は…良い父親にはなれそうもないよ」
低い囁きが、微かに震える。
目の奥に、じわりと熱が広がった。
こんな事なら、何も知らずにはると接していれば良かったのかもしれない。
白蘭がはるを連れて来た日、全てを知るか否か、そんな選択肢を突き付けられた。
あの時、即座に前者を選んだ自分が今となっては恨めしい。
片手で顔を覆うと、正一は声を押し殺して泣いた。
「………」
何時の間にか室内に満ちていた寝息が止まり、薄っすらと開かれたはるの視線が注がれているとも知らずに。







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