旋律は繋がりて5
コポコポと清浄な水音が部屋に響いている。
聴いているだけでも涼しくなりそうな、そんな音に耳を傾けながら、白蘭は目の前に据え付けられている透明な分厚い培養ケースを見ていた。
その中は特殊な液体で満たされており、一本の太いチューブで繋がれた裸の少女が一人浮かんでいる。
ケースの内側では呼吸すら必要としていないのか、その鼻からも口からも空気の泡が零れ出る事は無い。
彼女はただ目を閉じて、液体の中でユラユラと揺れていた。
「…はる?」
不意に背後から良く知る声が聞こえ、白蘭は薄く微笑んだまま振り返る。
「そうだよ。大きくなったでしょ。これで大体10歳ぐらいの過程になるね。…多分、明日にはもうこのケースから出してあげられると思う」
「そうですか」
呆然とケースに見入っている正一の横顔を眺め、白蘭は満足そうな表情でケースへ一歩近付く。
「正チャンは此処に来るの、初めてだっけ?」
「はい。…こんな施設があるなんて、昨日まで知りもしませんでしたよ、僕は」
何処か不満気な声音に笑いを漏らし、白蘭の指先がケースの表面を軽く撫でた。
「秘密にしてたつもりもないんだけどね」
「けれど、結果としては同じ事でしょう」
「違いない、かな」
ケースがトントンと音を立てて指先で叩かれても、少女の瞼が開かれる事は無い。
少女はまるで死体の様に、自らの意思ではピクリとも動かなかった。
代謝機能として起こる僅かな痙攣すらも、其処には一つも見られない。
本当に生きているのかどうか、正一は思わず不安になってケースを凝視した。
「似てきたよね、彼女に」
「………」
「このまま行けば、まさに僕達の理想通りの彼女が手に入る事になる。ボンゴレとは無関係な、ミルフィオーレだけの、そんな彼女が」
「はるは、はるです!彼女とは別人でしょう!!」
白蘭の言葉に突如として激昂した正一に、しかし向けられたのは冷ややかな視線と嘲笑めいた笑み。
「でも君が見ているのは、はるじゃない。はるを通して、彼女を見ている」
「―――っ!」
即座に切り返された台詞が、鋭利な刃となって正一の胸を貫いた。
全くの図星を突かれた衝撃に、呼吸すら一瞬止められてしまう。
「はるは聡い子だからね。もう気付いていると思うよ。例え正チャンがどんなに取り繕ったとしても、ね」
続けられる言葉が、腹部に鈍い痛みを灯し始める。
ズクリ、と鈍ら刀で刺された様な、そんな激痛。
「だからかな。はるがスパナ君に一番懐いているのは…」
ケースに向けられる白蘭の目が、ほんの僅かながら陰りを帯びた様に見えた。
それは寂寥感から来る感情か、それとも焦燥感から来る苛立ちか。
「だとしたら、白蘭サンも人の事は言えないでしょう」
「そうだよ」
意趣返しとして放った攻撃は、アッサリと受け流されて消えてしまう。
白蘭に心理戦は通じないと解っていたが、それでも敢えて仕掛けたのは、少しばかりの期待からだ。
もしかしたら僅かながらでも、白蘭の本音を垣間見る事が出来るかもしれない。
そんな馬鹿げた期待。
その結果、見事に惨敗した訳だが。
「僕も又、はるを通して彼女を見ている。成長したはるを見て、改めて思ったよ。…もしもはるが彼女と全く似ていない存在になっていたのだとしたら、恐らく処分したんじゃないかな」
残酷な、余りにも残酷な言葉に、正一はもう何も言い返せなかった。
奈落の底に叩き落される感覚と共に、彼の言葉に同意してしまう自分が確かに居る事を認識してしまったせいだ。
白蘭の言う通り、もし仮にはるが彼女と無縁の存在として誕生していたのなら。
その場合、白蘭が『処分しろ』と命じても直ぐに従っていただろう。
多少、良心の呵責はあっただろうが、しかしそれだけだ。
必死になって止める事も、ましてや反逆してまで阻止する事は無かったに違いない。
道理や道徳等、疾うの昔に捨て去ってしまっている自分が、白蘭の言葉にこれ程までに絶望しているのは、はるが他ならぬ彼女と同じ存在だからだ。
同じ響きの名前を持つ、自分の中で大きな割合を占めてしまっている、あの彼女と同一だからだ。
ギリリと締め上げられる様な胃の痛みに耐えかね、正一は己の口元を片手で押さえて小さく呻いた。
歪む視界の中、ケースへと目を遣る。
はるは、眠ったまま。
培養液の中で、深い深い眠りについたまま。
ケースの外側でこんな会話がされているとも知らず、夢すら見る事の無い死にも近い境界線で、ただ眠り続けている。
無理矢理に創り出され、無理矢理に成長させられ、そしてその意思すら無視された場所で運命を決められる。
自分であれば決して耐えられない、そんな所業を自分達はこの少女に行っているのだ。
「許してくれ、はる…」
正一はケースにそれ以上近付けず、現在地を保ったままで呟いた。
白蘭は既にはるだけを見つめている。
その姿に自分を重ねて、正一の目が悲痛に歪む。
何処からこうなってしまったのか、もう思い出す事すら出来ない。
けれども今更止めようにも、もう止められないところまで来ている。
そして、その気も無い。
彼女を手に入れたい、もう一度傍に置きたいと願うのは、何も白蘭だけでは無いのだから。
はるが突然部屋に来なくなって、既に3日が経過していた。
室内に響くのは、目覚まし代わりのモスカの起動音だけ。
普段は一人分多い寝息が、今のこの部屋には足りなくなっている。
「………」
ぼんやりした頭を片手で掻き上げると、視線で自分の隣を探る。
しかし其処にあるのは、誰も居ない空間。
白いシーツに付いた、深い皺だけが目につくのみ。
寝相悪く寝転がっている姿を自然と探してしまう自分に、スパナは小さく苦笑してベッドから降りた。
飴を一本口に銜えると、頭部を点灯させているモスカの一体に近付き、簡単な操作を施して時間制限を掛けておいたシステムを解除する。
途端に音を立てなくなったモスカを見遣り、一つ頷くと再びベッドへと足を向ける。
「はる、そろそろ起き………居ないんだった」
つい先程確認したばかりの毛布の膨らみに目を落とし、シーツの上にゆっくりと腰を降ろす。
この3日もの間、毎朝がこんな調子だった。
はるの姿を見かけなくなってからというもの、どうにも調子が狂ってしまっている。
今まで1日たりとも姿を見せなかった日は無かったのだから、それも致し方が無い事だと言えよう。
まさか自分が此処まで他人を想う事があるとは思わなかっただけに、スパナは軽い感動すら覚えていた。
「正一に、聞いてみるかな…」
はるがあれからどうしているのか、元気でやっているのか。
まだたった3日しか経っていないというのに、どうにも気になって仕方が無かった。
部屋に散らかっている、子供向けの童話冊子は全てそのままにしてある。
単に片付けるのが面倒くさかったという理由も無いではないが、それ以上に何時はるが戻って来ても大丈夫な様にという配慮からの事だ。
逆に参考書や教本の類は全て、纏めて部屋の片隅に積み上げている。
スパナは元より、はるに勉強をさせる事を余り好ましく思ってはいない。
はるは確かに、天才といっても良い位の頭脳を備え合わせている子だとは思う。
だが、だからといって、まだ5歳程度の子供にあれ程までの勉強をさせる必要はないだろう。
本人は苦痛には思っていないのかもしれないが、傍から見ていて余り気持ちの良い物では無い。
今は活字等に携わさせるよりも、もっと他の――そう、例えば同じ年頃の友人を作らせて遊ばせる方が、遥かにはるの為になるのではないだろうか。
一日中部屋に閉じ篭め、本当の日光も知らぬままに幼少期を過ごさせるよりは、其方の方が余程健全で子供の教育にも良い気がする。
四六時中室内に居る自分も、余り人の事を言える身分では無いが。
「また頼まないと」
窓の無い室内を見遣り、次いで天井に視線を向ける。
以前一度だけ、正一に許可を貰ってはるを屋外に連れ出した事がある。
その日は生憎と小雨が降っており、日の光を浴びさせてやる事は出来なかったが、初めて出る外界にはるは大層喜んでいた。
最初は天から降り注ぐ雨を不思議そうに眺めているだけだったが、気付けば何時の間にか持っていた傘を放り出して、子供は元気一杯に雨の中へと躍り出ていた。
地に溜まる水溜りへと盛大に踏み込み、あちらこちらを泥だらけにしながら、小雨の中をはしゃいで走り回る。
そんな姿を多少の心配と共に見守りながらも、スパナは何処かホッとしている自分を感じていた。
普通の子供とは何処かが違う、そんなはるに疑問を抱いた事は一度や二度では済まない。
頭が良いというだけでは済ませられないその要領、そして初めて会った時に感じた奇妙な緊張感と存在の不安定さ。
一種のロボットにも似た、正確な軌道の歩み方。
恐らくは無意識に出ているのだろう、ほんの時折覗く無感動な瞳。
それらは全て、この一ヶ月間殆どを一緒に過ごしていて気付いた事だった。
だからこそ、何時かは正一に聞かねばならないと思っていたのだが、普通の子供の様に楽し気に雨を浴びて騒ぐ姿が、そんな心配は無用だと言わんばかりの安心をスパナに齎してくれていた。
「今度は天気も調べて…、ついでにウチも日光浴しておこうか」
そうは呟いてみるものの、そもそもこれから先もはると一緒に過ごせるという保障は何処にも無い。
否、3日も姿を見せない事からして、既にこのミルフィオーレの長である白蘭に引き取られた可能性もあるのだ。
此処までひた隠しにして育てられている事からして、はるは白蘭の子供ではないだろうかとスパナは考えていた。
もしもそれが当たっているとすれば、何れあの子供とはそう簡単には会えなくなるだろう。
それならば、その前にもう一度だけで良いから、共に外に出ておきたい。
腕に付けている通信機を見下ろし、付属として機能している時計を確認する。
デジタルな数値は、朝方の8時を10分ばかり過ぎた事を告げていた。
この時間なら、正一も起きているだろう。
通信を取ろうと指先をコールボタンへ伸ばそうとした瞬間、廊下を慌しく駆けて来る音が聞こえて来た。
「すぱ、おはよ!」
次いで開いた扉と、飛び掛ってきた小柄な身体に、スパナは一瞬間の抜けた顔を晒す羽目になってしまう。
間抜けついでに、飛び掛ってきた重力に押される様にして、そのままベッドに寝転がされた。
「…はる?」
「すぱ、朝は『おはよう』って言わないと!すぱが教えてくれたことでしょ?」
挨拶は大事、と腹の上に馬乗りになった子供は、しかめっ面で注意した。
3日会わない内に、はるの言語発音はかなり上達したらしい。
ハキハキとした物言いに加え、発音の幅が相当広がっている。
以前までの、単語を重点的に発した単調なものではなく、其処に豊かな接続詞や感情が篭められる様になった。
そして、問題はそれだけでなく…。
「はる、何かでかくなってない?」
以前より明らかに増した身体の面積と重さに、スパナは呆然と子供の顔を見上げる事しか出来ない。
3日前までは確かに5歳程度だった筈の子供は、今や10歳ぐらいにまで大きく成長を遂げていた。
尤もそれは肉体面だけの事だった様で、発音等の点を除けば、精神面は前と余り変わった箇所は見られない。
「うん、はる大きくなったよ。すごい?すぱ、すごい?」
グイグイと身を乗り出して見下ろす顔は、まるで悪戯が成功して喜ぶ子供そのもの。
確かに驚くぐらい凄い事ではあるが、普通は3日でこんなに成長したりはしないものだ。
にこにこと嬉しそうに笑っている姿をまじまじと眺めていると、その背後から腕組みをした正一が現れた。
「何やってるんだ…」
ベッドの脇でじゃれ合う二人の姿を見下ろし、正一は不機嫌そうな顔でぼやく。
「しょー。おそかったね」
「はるが早過ぎるだけだ。まだ走ったら駄目だと言っただろ?本調子じゃないんだから。…それよりはる、敬語は?」
「あ…うん。じゃなくて、はい!気を付けるのです!!」
正一の声に振り返ったはるが、元気良く片手を挙げて返事をしている。
そんな光景をぼんやりと見ていたが、不意に正一と視線が合い、正一がはるの身体を持ち上げて床に立たせてくれた事によって、漸く身体を起こせる様になった。
「はる。もう前みたいに、気軽にスパナに飛びついたら駄目だよ」
「どうして?」
「敬語」
「どうしてですか?」
やけに敬語に拘る正一を見遣ると、チラリとだけ視線を返される。
其処に含まれた、何とも言えない敵愾心にも近い感情に、スパナは首を傾げた。
「スパナはもう歳だからね。前みたいに小さい頃ならまだしも、今のはるが飛びついたら、下手をすればぎっくり腰を起こしかねない」
「…ちょっと、正一?」
余りな理由付けに、スパナが抗議しようと声を掛けるも、綺麗に無視されてしまう。
「だから我慢出来るね、はる?」
「はい、すぱのためにもガマンするのです!」
僅かにしょんぼりとしながらも、スパナの腰を本気で心配しているらしい少女は、しっかりと大きく頷いた。
「………」
そんな表情を見た後では今更何も言い出せず、スパナはただ沈黙せざるを得ない。
「それじゃ僕は仕事があるから、そろそろ行くよ」
「はい。しょー、気を付けて。お仕事頑張って下さいね」
「うん。…スパナ、色々と聞きたい事はあるだろうけど、それはまた後で話そう」
はるが居ない場所で。
告げられなかった言葉の意味を聞き取り、スパナはそれを承諾した。
「それじゃ、はる。良い子にしてるんだよ」
「はーい」
パタパタと片手を振る、久しぶりに見たはるの姿を眺め、スパナはもう一本の飴をポケットから取り出す。
姿は多少変われども、はるは、はるだ。
その接し方を変える事も、その必要も無い。
それに、正一が再びはるの世話を任せてくれたという事は、共に過ごせる多少の時間はまだあるという事。
「はる。飴食べる?」
苺味の飴を差し出すと、はるは満面の笑みでそれを受け取った。