旋律は繋がりて6








「クローン?」
コトンと小さな音を立てて湯のみをテーブルに置くと、スパナは目を瞬かせた。
「あぁ。はるは元々、とある人物の細胞から造られた…所謂、人工生命体だよ」
向かい合って座る正一は、何処と無く居心地が悪そうに周囲を見渡している。
それもその筈、彼等が会話しているのはスパナの作業部屋、つまりはモスカの大群が据え付けられている部屋の中だった。
周囲をグルリと巨体の機械に囲まれた状況では、落ち着いて茶を飲む気にもなれない。
「…なぁ、スパナ。もうちょっとこう、場所を選べなかったのか?これじゃ僕が落ち着かない」
「無理。傍に機械がないとウチが落ち着かないし、何より此処以外の場所だと人目につく」
「それはそうなんだが…」
出された緑茶を見下ろし、正一は小さく溜息を吐いた。
確かに、誰もいない場所での対話を希望したのは自分だ。
しかしそれでも、上から見下ろされる圧迫感に気が散って仕方が無い。
「それで、はるが急に大きくなったのは――」
「…成長促進剤を使ったんだ。本当なら、僕は反対だったんだけどね」
「でも使った?」
スパナの追撃に顔を苦々しく歪め、正一は僅かに俯いてテーブルへ視線を落とした。
「…あぁ…」
自分でも言い訳がましい台詞だと思う。
解っているからこそ、何も言い返す事は出来ない。
はるの身体に重い負担が掛かると承知の上で、結局自分は白蘭を止める事はしなかったのだから。
一向に視線を上げない正一をじっと眺め、スパナは湯のみへ新たな緑茶を注ぐ。
「はるは、日本人だね」
「?」
唐突に切り出された質問…否、確認の問い掛けに、正一は怪訝そうに顔を上げる。
「正一、今まではるに緑茶を飲ませた事は?」
「…いや、無い。それがどうかしたのか?」
「うん。ウチ、今までに2回はるに飲ませたんだよね。1回目はまだ小さい時――成長する前で、はるは一口飲んだだけで、『苦い』って言って飲んでくれなかったんだ。今まで子供向けの甘い紅茶とか、そういうのしか口にさせた事がなかったから、それはそれで当然なんだけど」
飲み口ギリギリまで注がれた緑茶を見下ろし、スパナは一旦口を閉じる。
言うべきか、それとも言わずにおくべきか、そんな迷いが彼の中でぶつかり合っている様に見え、正一はただ静かに続きを待った。
「2回目は、成長した後。ウチが飲んでるのを見て、はるも飲みたいって言い出した。と言うより、何時の間にか飲まれちゃってたんだけど。今度は『美味しい』ってお代わりを要求されたぐらいだよ」
湯飲みを片手に語るスパナは、何処となく緊張している様に正一には感じられた。
普段そんな素振りは全く見せないだけに、自然と話が深刻めいた雰囲気を纏い出す。
モスカに囲まれている光景は、気付けば目にも入らなくなってしまっていた。
「成長につれて味覚が変わるなんて話は良く聞くし、色々な食べ物を食べて行くにつれて、好みなんてものは幾らでも変わっていく。でもはるの場合、その過程が無いんだ」
「成長促進剤のせいだと?」
「…それだけなら、まだ良かったんだけど」
湯のみに口を付ける相手から視線を外さず、正一は前方にある顔を睨む様にして見据えた。
「何が言いたい」
「正一。あんたは以前、はるをこの施設から出した事は無いと言った。なら、はるは此処で生まれたという事になる。緑茶なんてウチぐらいしか飲む事のない、この施設の中で」
「それがどうしたと言うんだ。今の話と一体何の関係が――」
「はるは、一体何処で緑茶に慣れたと思う?」
スパナの言い回しに、正一の眉が上がる。
質問の意図が解りかねるといった表情に、スパナは再び口を開く。
「はるが緑茶を飲んだ1回目と2回目、その間隔はたったの1週間。何もなしに、それだけで味覚が突然変わるとは思えない。あんたらが使ったという成長促進剤がどんな影響を及ぼすのかは知らないけど、名前通りの働きをするのであれば、頭脳と身体の成長を促す役割をするものなんだろう。もし仮に、その薬のせいで脳に何らかの働きがあって、そのせいで味覚が狂うというのは、まぁ…無い話ではない」
「それなら、何処もおかしなところはないじゃないか。味覚が変わったなら、慣れるも何も無い」
馬鹿馬鹿しいと、正一は今まで手を付けなかった湯飲みを持ち上げる。
そしてそれは数秒後、彼の手を離れてテーブルの上に滑り落ちた。

「うん。だから最初はウチも余り深く考えてなかったんだ。はるが緑茶を飲み終えた後『懐かしい味がする』と言うまでは」

重い音が部屋に響いた後、緑茶がテーブルの表面を伝い広がって行く。
盛大に撒き散らされた雫は正一の服にも掛かったが、彼の表情からしてその事実には気付いていないだろう。
白い礼服が、じわりじわりと緑の色に侵食される。
それでも正一は、湯飲みを掲げていた格好のまま、ピクリとも動かずにスパナを見つめていた。
「懐、かしい…?」
「そう」
「それは、前に飲んだ事があるからじゃないか…?はるは、それを忘れていて…」
「一週間前の事を?はるの記憶力の良さは正一だって知っている筈だ。それにはる自身が、成長前の事は全て覚えていると言っていた。有り得ない」
スッパリと切られた可能性に、正一の顔が暗く陰る。
「考えられるのは、記憶。はる以外の人間が持つ、記憶だよ。正一」
「…オリジナルの記憶だと言いたいのか?だが、クローン人間は…」
「そう、クローンは記憶までは受け継がない。元の人間がどれだけ緑茶を飲んでいようと、日本料理を食べていようと、それはあくまでその人の経験した事であって、それが別固体にまで繋がる訳がない。少なくとも、ウチが知っている限りでは、そんな事は絶対に無いんだ。彼等は同じ遺伝子を持ってはいても、同じ人間ではないから」
テーブルの上に零れた緑茶はそのままに、スパナは淡々と続ける。
彼が何を言いたいのか、正一には解っていた。
それは自分自身、今までなるべく考えない様にしていた不安。
白蘭に対して口に出来なかった疑問だったからだ。
「正一。はるに与えられたのは、本当に成長促進剤だけ?」
スパナが決定打を叩き込んで来た瞬間、脳裏に一つの顔が浮かび上がる。
肩で切り揃えられた黒髪に、何処か勝気に見える黒い瞳。
自分も白蘭も、どうしようも無く惹かれた、たった一人の女性。

三浦ハル。

最早記憶の中にしか存在しない彼女の名前を呟くと、正一は逃げる様にして席を立った。




覚えているのは、酷く悲しい想いだけ。
それは自分の持っていた感情ではなく、誰か別の――他の人間の記憶なのだと知っていた。
苦しいと叫んでいる姿が、暗い世界の中でポツリと浮かんでいる。
長い長い眠りだったと、二度目に目を開けた時に思った。
「おはよう」
白い人が笑い掛けて、身体に厚い布を被せてくれた。
記憶はしっかりと残っていて、傍に立つこの人物が誰なのかもハッキリと覚えている。
「びゃく…」
「ん?」
「はる、大きく…なったね」
眠りに落ちる前より随分と高くなった目線が、何故か悲しかった。
「そうだよ。痛いところは無い?」
「…うん。大丈夫」
口にする単語が、以前よりずっと明確に脳裏にイメージとして浮かんで来る。
文字としてだけでは無く、その発音でさえも喋る前から解っていた。
まるで誰か別の人間の口を借りて話しているかの様な、そんな奇妙な感覚。
ぼんやりと視線を相手に向けていると、不意に顔が近付いて来た。
同時に感じた浮遊感から、抱き上げられたのだと認識するまで、やけに時間が掛かる。
融合が、未だ不完全なのかもしれない。
ふと頭を過ぎったそんな言葉に、はるは顔を顰めて白蘭の胸元に顔を埋めた。
「正チャンが凄く心配してたから、はるの顔を見たら喜ぶと思うよ」
「しょー…が心配?」
ユラユラ揺れる足元が、妙に気持ち悪い。
押し付けた額を通して聞こえる白蘭の鼓動に、どうしようも無く泣きたくなって来た。
この人は一体、自分の中に何を入れたのだろう。
「うん。だから早く回復して、元気な姿を見せてあげないとね」
「…そう、だね…。頑張る」
口にする言葉とは裏腹に、はるの手足は鉛の様に重くなって行った。
心情をそのまま素直に出す己の肉体が、妙におかしく感じられる。
あぁ、泣いたり笑ったりと思考が落ち着かない。
「良い子だね、はる」
腕の中で頷く子供の頭頂部に小さな口付けを落とし、白蘭はひっそりと微笑んだ。
はるの感じている違和感を承知の上で、彼は布に包まれた小さな身体を運ぶ。
再び手に入れた愛しい存在を、より一層本物へと近付ける為に。




教本に書き込む手が止まってから、既に10分が経過している。
モスカ頭部の基盤である、薄い金属製の板に手入れを施していたスパナは、ぼんやりと手元を見ている子供に視線を向けた。
「はる」
「はひ?」
声を掛けると、きょとんとした顔で返される。
「集中出来そうにないなら、今日は止めておいた方が良い」
明らかに心此処に在らずといった様相に、スパナは製造途中の板を床の上へと静かに置く。
「ん…」
「別に責めている訳じゃない。ウチは、はるに勉強して欲しいとは思ってないし。…ま、ある程度は必要だと思うけど、あんたは明らかにやり過ぎ」
俯く姿に片手で手招きすると、はるは大人しく近付いて来た。
そのまま示された隣に腰を下ろし、不思議そうな表情でスパナを見上げる。
「すぱは、しょーと違う事を言うね。…はるに敬語使わなくて良いって言うし」
「うん。だって、無理強いするのは嫌だし」
床の上に置いた板を指先でつつきながら、はるへ飴を一つ渡す。
直ぐ様嬉しそうに袋を破る姿に小さく笑むと、自分もまた別の飴を胸ポケットから取り出した。
「すぱには、無理してるように見える?」
「大分」
ポンポンと小さな頭を軽く叩けば、向けられていた視線が揺れた。
「…はる、敬語嫌いじゃないよ」
「うん」
「すぱも、しょーも、年上の人だし」
「うん」
「敬語を使うのは、当たり前だって学んだから」
「そうだな」
ポツリ、ポツリと零れる言葉が妙に硬い。
突然話し方を変えろと強要され、けれど戸惑う事なくそれを受け入れたはる。
彼女が何処まで真実を知っているのか、そもそもの事情を教えられていないスパナには全く解らないが、それでも正一達の望む姿になろうと努力している事だけは良く解る。
それ程に彼等を慕っているのだと、はるは口にする事なく行動で示していた。
「でも、ウチには使わなくて良いから」
「……うん。すぱ、有難う」
以前と変わらない、ぎゅうとしがみ付いてくる小さな身体と温もりにスパナは目元を和ませ、床上に置いていた板を拾い上げた。
「はる、見てて」
「はひ」
片手の平に乗せた、直径30cmの板を子供の目の高さに合わせて掲げ、親指の先で板の端を一撫でする。
その瞬間、板の上にふわりと小さな機体が1つ浮かび上がった。
「これ…モスカ?」
「そう、モスカ。ミニモスカ。立体映像だけど」
透けて向こう側が見通せる、子供の手の平サイズのモスカが、板の上でクルクルと回転して躍り始める。
コミカルなその動きに、はるは破顔して手を叩いた。
「凄い!凄い凄い、すぱ凄い。可愛いー!」
「遊びで作ってみたんだけど、…成功かな」
喜ぶ少女の姿につられて笑みを漏らし、ゆっくりと板を相手へと渡す。
両手でしっかりと受け取ったはるは、愉快な仕草で躍り続けるモスカにすっかり夢中だ。
「………」
そんな子供の姿にスパナは、昼間に突然部屋を出て行ってしまった、何処か思いつめた表情をしていた正一の顔を思い出す。
はるのオリジナルは恐らく、正一が好意を持っている人物だろう。
だからこそ、ちょっとしたスパナの行動に、あんなにも躍起になって反応する。
問題は、正一が何処まではるとその人物を同一視しているかだ。
別人だと解っていても、完全には割り切れていない…そんな印象をスパナは受けていた。

もしもこの予感が当たっているとすれば、遠からず正一は―――。







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