旋律は繋がりて7








正一の視線は白蘭に当てられたまま、全く揺るぐ事が無かった。
真剣な表情はともすれば怒っている様にも見えるが――否、事実怒りを抱えているが、それを何とか隠しているのだろう――、しかし対する白蘭は薄い笑みを浮かべたままだ。
「答えて下さい、白蘭サン」
「何を?こんな時間に正チャンが来るなんて珍しいよね」
チラリとデスクの中に埋め込まれているデジタル時計を見遣ると、既に深夜を回っていた。
そろそろ寝ようかと腰を上げた瞬間に、来訪を告げるアラーム音が鳴った時には驚いたが、この青年がこんな時間に此処まで足を運んだ理由は何となく解ったので、そのまま直に通すようにした。
恐らく殆ど駆け足で来たのだろう。
元々、運動よりも勉強を好む体質の正一は、白蘭の執務室へ着いた頃には息を切らせていた。
「茶化さないで下さい。僕が何を聞きたいのかなんて、解っているでしょう!」
我慢の限界が来てしまったのか、正一はとうとう声を荒げて両手をデスクへと叩き付ける。
彼がこの部屋に入って、まだ5分と経過していない。
案外忍耐力がないのだと白蘭は面白そうに笑ったものの、その5分の間、散々答えをはぐらかして遊んでいたのだから、正一が切れるのも当然と言えた。
「はるの事かな?」
「それ以外に何があるんですか」
即座に切り返された台詞に白蘭は軽く肩を竦め、右手に抱えた袋からマシュマロを一つ摘む。
「はるに、彼女の記憶を植え付けたのは何故ですか」
つるりとした滑らかなデスクに突いた両手は外さず、正一は身を乗り出して白蘭に詰め寄る。
当の本人はそんな事など全く意に介した様子も無く、のんびりと白い菓子を口に運んでいるのだから、これ以上に腹立たしい事はない。
その腕から袋を取り上げ、シュレッダーにでも掛けてしまいたい衝動が彼を襲ったとしても、誰も責める事は出来ないだろう。
「予定通りだったから」
「は?」
今まで散々惜しまれていた返答は、しかし至極アッサリと吐き出された。
それも予想外の内容で。
「だから、ハルの記憶をはるに移す事は、当初の予定通りだったんだ。元々は、その為にはるを造ったんだからね」
「それは…はるを、ハルにすると…そういう事ですか?」
「うん、そうだよ」
にっこりと笑う白蘭に、正一は蒼白な顔で口をパクパクと開閉した。
言うべき言葉が見つからないのか、それとも言いたくても言い出せないのか。
口にせずとも解る、責める様な眼差しに小さく笑うと、白蘭は空になった袋をデスクへ放り出して椅子から立ち上がった。
「何か問題でもあるのかな?」
正一の視線を遮る様に背を向け、部屋の隅に置かれていた装置へと近付いて行く。
天井から床までの高さ、大の大人がスッポリと入ってしまう横幅の透明なケース。
10日前まではるが入っていた、生命維持装置だ。
白蘭はその真正面に立つと、片手を静かにケースへと押し当てた。
多少青味掛かった、透明な液体で満たされているそれに、何処か陶然とした表情で触れている白蘭が恐ろしく感じられる。
「……はるは、あくまでハルの身代わりだった筈では…」
「身代わり、ね」
漸く押し出した言葉は、皮肉めいた笑い声に直ぐ様打ち消された。
今更何を言っているのか。
そう詰られた気がして、正一は口を噤んだ。
「でも正チャンが望んでいるのはハルでしょ。はるより、ハルが欲しいんだよね。だから、はるに敬語を強要して、成長させるのも止めなかった」
「それは……」
「言い訳なんて、君らしくもない。まだ逆上して怒鳴った方が、らしいよ?正チャン」
「…っ」
ギリリと、低い軋み音が正一の口から漏れる。
此処数日で彼の歯は、確実に磨り減ってしまっているだろう。
虫歯になりやすいだろうにと同情する訳でも無く、白蘭は可笑しそうにクツリと笑い、ケースを一撫でしてから手を離す。
「前にも言ったよね、理想通りのハルが手に入るって。あれは比喩表現なんかじゃない」
最早何も言えずにいる正一を振り返り、白蘭は絶やさなかった笑みを更に深めた。
「言葉通り、ハルを手に入れるんだよ。―――次の成長段階で、はるは、ハルになる。完全にハルの記憶を移植して、はるを消すんだ」
「消、す…」
「うん、消すよ」
何でも無い事の様に笑いながら話す白蘭を、正一は得体の知れない者を見る目付きで凝視した。
「それは、はるが死んでしまうという事ですか…?」
「痛みは無いよ。あぁ、言い方が悪かったかな?消すというよりは、同化だね。はるはハルの一部になるんだ。はるの記憶は全くなくなるけど、ハルとして生きていくんだから、死ぬ訳じゃない」
「でもそれは、はるにとって死と同じ事でしょう」
前方に立つ白い青年を睨むと、心外だと言わんばかりの表情が返って来る。
「ものは言いようって言葉があるけど、まさにそれだね」
「白蘭サン、貴方はそれで良いんですか!?」
小さな叫びは室内に響いたものの、それは何ら白蘭にダメージを与えていない様だ。
彼の笑いは変わらず顔に張り付いており、正一をただじっと眺めている。
「じゃぁ、逆に聞こうか。正チャンは、ハルと再び会うチャンスがあっても、それを投げ捨ててまではるを傍に置きたい?」
「そんなの、と―――…」

当然だ、と。
そう言うべき筈の唇が、途端、凍った様に動かなくなった。

何時の間にか白蘭の口元から笑みが消え、正一の本心を探る様に閉ざされている。
どうして。
どうして、答えない?
簡単な事じゃないか。
はるをハルにするなんて、とんでもない。
ハルに近付ける、身代わりにする。
それで良かった。
其処までは許容出来たのだ。
けれど、はるを消し去るなんて、そんな事は絶対に出来ない。
はるは、はるだ。
ハルになる等、有り得ない。
有り得ないのに―――何故、自分はそれを口に出来ないのだ…?
「あははは。目は口程に物を言うっていうのかな?こういう場合。まぁ、目を見なくても返事が出来ない時点で直ぐに解っちゃうけど」
それまで正一の返答を待っていた白蘭が、とうとう堪え切れなくなった様に吹き出した。
「正チャンは正直だねぇ。頭では納得出来なくても、身体が勝手に答えを出してくれてる」
「…随分、日本の言葉が堪能になったんですね」
「うん、君とハルの祖国だからね。それにこれから色々と開拓していかないといけない国だし、僕も勉強しておかないと」
「そう、ですか…」
搾り出す様な正一の声に白蘭は意味深な笑みを見せ、デスクに行儀悪く腰を掛ける。
笑いながらも細められた目は、あからさまなまでに正一を憐れんでいた。
ハルを捨てる覚悟もない癖に、反発するのは愚かな事だよと、その目が語っていた。
所詮、綺麗事は綺麗事でしかない。
はるとハル、どちらを取るのかなんて、そんな事は疾うの昔に解っていた筈だ。
それでも敢えて反論を試みたのは、簡単に捨てられてしまう哀れな子供を守る為か。
それとも、自分の中の卑小な道徳を守る為か。
どちらにせよ、ハルを選んだ時点でそのどちらも守れはしないのだ。
そんな自分に白蘭を責める事は出来ない。
その資格も、無い。
「さて、正チャンの答えも出た事だし。後はせめて、目一杯はるを可愛がってあげなきゃね」
タイムリミットまで。
密やかに囁かれた言葉を、正一は黙って受け止める事しか出来なかった。
「………」
防音が施されている壁の向こう側、小さな影がそっと蠢いた事を知らないまま。




ふらりと戻って来た子供は、何処か疲れている様に見えた。
表情や態度に、特にこれといった変化は無い。
話し方も笑顔も何もかもが何時も通りで、些細な違和感を感じたのは自分の気のせいだと思えてしまう。
けれど、何かがおかしい。
その何という部分をハッキリさせる事は出来ないが、確かにはるは何処かおかしかった。
「はる」
無理をして元気に振舞っている様には見えないからこそ、余計に不信感が煽られる。
これは勘だ。
何の確証も無い、単なる勘だ。
それでも、チリチリと燻る様な感覚を無視する事は、今のスパナには出来なかった。
「はひ?」
「茶、飲んで」
スパナの作業台で勉強していた子供に湯飲みを差し出し、自分もまた緑茶を淹れた陶器を持ってその向かい側に座り込む。
胡坐を掻く体勢で子供と向かい合えば、はるは不思議そうに顔を上げた。
「休憩?」
「うん。休憩」
「でも、はるまだ30分しか…」
「昨日は6時間ぶっ通しで勉強していたんだ。一日ぐらい休憩を多目に取っても、正一は怒らない」
はるの手元にあった教本を閉じると、纏めて床の上に放り出す。
バサンと、分厚い紙の束が風圧によって捲れて落ちた。
「すぱ?」
何時になく乱暴なスパナの態度に、はるは驚いた様に目を瞬かせる。
彼がこんな動作をするのは極めて珍しい。
自分の道具であればともかく、はるの持ち物を乱暴に扱う事は、今までに一度も無かったのだ。
「すぱ、怒ってる…?」
「ウチが?…いや、はるがそう思うなら、怒ってるんだろうな。自分では解らないけど」
「どうして?」
「はるに怒ってる訳じゃない」
「えっと、意味が良く…解らないよ、すぱ」
戸惑いの声に、スパナは大きく息を吐いた。
右手に収まった湯飲みに視線を落とし、次いでそれを一気に喉へ流し込む。
まだ熱い緑の液体は、食道を焼きながら胃の中へと落ちて行った。
先程まで感じていた違和感に対する苛立ちは、それで少しだけ影を潜めてくれる。
「ウチが怒ってるのは、何も出来ない自分に対してだから。はるは気にしなくて良い」
無理だろうとは思いながらも、一応それだけは言っておく。
案の定、はるは困った様に湯飲みに口を付けた。
「すぱには、解るんだね」
子供には似合わない、深い溜息が小さな口から漏れる。
諦めと、寂寥。
その二つが交じり合った吐息は、スパナの顔を歪ませるのに充分な代物だった。
「ウチには話せない悩みなんだろうけど…」
「…うん」
「正一や白蘭にも話せない事?」
「…うん。駄目。すぱ以上に、無理」
ポツポツと零れる言葉に、スパナは湯飲みを作業台の上に置くと、見た目より重い、木の板で作られた土台を横へスライドさせた。
鈍い音と共に付いた擦れ痕も気にせず、スパナは障害物の無くなったはるに両手を伸ばす。
そのまま、膝上に抱える様にして子供を真正面から抱き込み、腕の中に納まった温もりを確かめる。
「すぱ、お茶零れる」
「別に良いよ」
慌てた声音に素っ気無く返し、更に腕の力を強めた。
何となく。
本当に何となくだが、不意に恐怖が襲って来たのだ。
先程の苛立ちの原因は、実は此処にもある。
はるが居なくなってしまう様な、そんな不吉な予感。
それがスパナを焦らせていた。
目の前から居なくなる等、そんな生易しいものではない。
この世の何処にも存在し得なくなる、そう――例えるなら、まるでこの子供が死んでしまう様な、そんな気がしたのだ。
「すぱ。…すぱ、苦しい…」
「うん。御免」
「謝られても、説得力ないよ。すぱ…」
一向に腕の力を緩めようとしないスパナに、もぞもぞと苦しそうにもがきながらも、はるは笑った。
「すぱ」
「ん」
「はるね、大丈夫だよ」
「………」
「すぱがいるから、はるは大丈夫。最後まで、はるは、はるのままでいられる」
はるの紡ぎ出す音が次々とスパナの耳に届くも、その意味は余り理解出来ない。
秘密を多く抱えた子供は、それが解っていて、敢えて矢継ぎ早に話しているのだろう。
恐らく彼女は、自分の出自とその理由を知っているのだ。
「でも、もし…」
温かな子供の身体が、一瞬だけ震える。
湯飲みを両手に、胸の前で抱えたまま、はるはスパナの肩に頭を擦り付けて呟いた。
「もしも、はるがはるじゃなくなってしまったら、その時は…はるの事、忘れないでね」
予感が、確信に変わる。
「はる」
「はるが居なくなっても、時々でいいからはるの事、思い出して」
「はる」
「お願い」
「はる、はる。はる…」
肩から上げた子供の顔に、涙の気配は無い。
乾いた瞳は、ただ笑っていた。
「すぱだけが、はるを見てくれるから。お願い、出来るの」
泣けない子供の頼み事に、スパナはその名前を繰り返し呼ぶ事で応える。
少女の存在を刻む様に、確かめる様に。
決して忘れない様に。







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