よぶもの
埃が舞い、紙が舞う。
髪を真っ白にしたハルは、漸く目当ての物を見つけて崩れた本の山から顔を出した。
身体の方は、先程書棚から大量に落ちてきた本に埋もれたままだ。
本があちらこちらにぶつかって、少し――いや、かなり痛いが嬉しさの前にそれも吹っ飛んでしまった。
「やっと見つけました!」
一冊の古い本を両手で目の前に掲げる。
濁った沼の色に近い、ダークグリーンな色彩の表紙をまじまじと眺め、それを大事そうにぎゅううううううっと胸に抱き締める。
埃が色濃く服に付着するも、ハルは気にしなかった。
何せこの一冊を探す為だけに、貴重な休日を半日も費やしたのだ。
「これで…」
ふふふふふと不気味な笑いが口から漏れた。
「これで、ツナさんと両想いになれます!」
きゃーっと室内で一人歓声をあげる今のハルの姿を見れば、誰もが一歩後ろへと引くであろう。
しかし頭の中で、想い人である綱吉とのイチャイチャラブラブな、薔薇色の未来を妄想しているハルは今の自分の状態に気付く事はなかった。
本の山から身体を引っこ抜き、床に散らばる本や埃は完全に無視を決め込む。
散々荒らした父の書斎をそのままに、ハルは緑の本を大事そうに抱えたまま自室へと戻った。
帰宅した父親が今の書斎を見れば、恐らく腰を抜かすだろう。
まさか娘がここまで自分の部屋を荒らしたとは、思ってもいないに違いない。
ハルは床にペタリと座り込み、本から埃を軽く叩き落とした。
室内に舞い上がった埃は、開け放った窓へと吸い込まれる様にして消えて行く。
ある程度綺麗になったところで、本を丁重に床の上へと置いた。
結構な厚みのあるその本の表紙には、白銀の箔で文字が綴られている。
何と書いてあるのか、そもそも何語なのかもハルには解らない。
「はひ…読めないっ」
表紙からこれでは、中の文字も読めないのではないだろうか。
不安が過ぎるも、それを追い払う様にぶるぶるっと左右に頭を振る。
恐る恐る頁を繰ってみると、其処に書かれていたのは表紙と良く似た文字列だった。
「はひー!やっぱり!!」
ぎゃーっと叫んで、思わず本を投げ飛ばしそうになった。
寸での所で思いとどまったのは、この本の重要性を思い直した為だ。
「いけない、いけない…。こんな所で躓いてちゃ、恋する乙女として失格です。ツナさんとラブラブハッピーエンドを迎える為にも、頑張って解読しないと!」
片手を握り拳の形にして、ハルは自分に力説した。
「せめて何語かぐらいは解らないかな…」
ずっしりとした重みのある本を膝上へと移動させ、片手でペラペラと頁を捲って行く。
「あれ」
数十頁捲った所で、ふと見覚えのある文字を見つけた気がして手を止める。
ペラリと何頁か前に戻ると、ハルにも読める文字があった。
他の頁と同じ形をした文字で、相変わらず何語かは解らない。
けれど何故か、ハルにはその頁だけは読解する事が出来た。
不思議に思いながらも、ハルはその文字をゆっくりと読んで行く。
どうやら書かれているのは、何がしかの呪文の様だ。
「イル・ソルテ…」
本の文字は黒で印字されていた。
しかしハルが呪文を口にすると、表紙と同じ白銀の色へと変わり始めた。
まるで文字そのものが生きている様に輝き、目を惹きつけてやまない。
ハルの口は何かに操られる様に、淀みなく呪文を口ずさんだ。
「恭弥」
突然背後から声を掛けられ、背中に黒い翼を生やした少年は不機嫌そうに振り向いた。
少年の視線の先には、彼と同じく翼を有する青年が崖の上に立っていた。
「何か用?ディーノ」
少年は表情と同じ口調を相手へと向ける。
ディーノと呼ばれた青年は苦笑を浮かべ、ヒラリと身軽に崖を飛び降りて来る。
「用って訳じゃないけどな。お前が歩いてるの見えたから、声かけただけだ」
「そう。暇なんだね」
素っ気無い態度で少年は踵を返そうとする。
ディーノは慌てて少年の腕を掴んだ。
「おい、待てって。久しぶりに会った師匠にそりゃないだろ」
「別にあなたを師匠と認めたつもりはないよ。…何、殺し合いでもしたいの」
「おいおい…」
何処からともなくトンファーを手の上へ出現させ、それを構える少年にディーノは溜息を吐く。
「何だってお前はそんなに戦闘マニアなんだっての」
バサリ、と大きな翼を広げてディーノは宙へと浮かんだ。
「さっき地上から帰ったばっかで、久しぶりに仲間の顔が見られたから喜んだだけだ。そんな殺気立つなよ、悲しくなるだろーが」
「一生悲しんでれば?」
冷たい反応に、ディーノの顔が苦笑に歪む。
「ったく、そんなんでこの先大丈夫なのか?お前もそろそろ、契約を交わせる歳だろ」
「どうでもいいよ。そもそも、そんなものがなくても僕は強いからね」
チャキッと金属音を立てて、少年はトンファーを構え直す。
「だから、俺さっき帰ってきたばかりだって言っただろ。少し休憩させてくれって」
ディーノは慌てて少年から飛び離れた。
その瞬間、少年の体が銀の光に包まれた。
唐突に目を焼く光は、ディーノにとっては見覚えのあるものだった。
それもそのはず、この光に包まれて地上から戻ってきたのはつい先程の事なのだ。
これは地上である人間界と、この世界を行き来する為の謂わば架け橋だ。
「恭…」
声を掛け様としたが、その時には既に少年の姿は消えていた。
眩いばかりの光と共に。
「ついに御呼ばれか。頑張って来いよ」
ディーノは今この場にいない少年に、届かないと知りながらも小さくエールを送った。
「はひっ!?」
最後まで呪文を唱えた直後、本から迸る様な光が溢れた。
余りの眩しさに、ハルは片手で目を覆い光を避ける。
その体勢で目を閉じても尚、光は鮮やかにハルの目に焼き付いた。
やがて徐々に光が弱まっていき、完全に消えた所で漸く視界が元に戻った。
何度か瞬きを繰り返し、目元を擦りながら、膝上から床の上へと落ちた本を見下ろす。
先程まで輝いていたそれは、今では元通りの古ぼけた物に戻っている。
「…?」
恐る恐る本へと触れてみるも、ごくごく普通の何処にでもある本そのものだった。
「何だったんでしょう…」
指先で何度か文字をつついてみる。
反応は特に無し。
ホッと息を吐いた瞬間、頭上から声が降って来た。
「これが僕の主人…」
低い男の声…いや、まだ少年と言っても良いぐらいの声音だ。
自室でそんな声が聞こえる等、普通なら有り得ない。
ハルはバッと顔を天井付近へと振り上げた。
「―――!?」
意識せずして、声にならない叫び声が口から漏れる。
それもそのはず、其処に居たのは真っ黒な翼を生やした少年だったからだ。
しかも、その翼が玩具や飾りではない事を証明するかの如く、少年の身体は宙に浮いていた。
天井にギリギリでぶつからない上手い距離感で、少年は腕組みをした状態で此方を見下ろしている。
「冗談にも程がある」
はぁ、と盛大な溜息を吐いて、少年は身軽に床上へと降りて来た。
「なっ、な、なななっ」
ハルは慌てて少年から後ずさり、泡を吹かんばかりの勢いで相手を指差した。
「まさかとは思うけど、喋れない訳じゃないだろうね」
それこそ冗談ではないと言わんばかりに、少年はじろりとハルを睨む。
「失礼です!それより貴方、誰なんですか!!レディーの部屋に無断で入って!」
相手の態度は流石に勘に触ったらしく、ハルは立ち直るなり少年に食って掛かった。
「レディー…ね。そういうのは、もう少し育ってから言った方が良いんじゃない?」
あからさまに馬鹿にした視線でハルを上から下まで眺め、少年はクスリと笑った。
余りの侮辱に、ハルは顔を真っ赤にして更に言い募ろうとしたが、それを見越した少年が片手を上げてそれを制す。
「それ以上煩く吼えないでくれる?いい加減にしないと噛み殺すよ」
「はひっ」
殺すとの脅し文句に、ハルは口を閉じた。
しかしその視線は相変わらず、相手を睨みつけているままだ。
「威勢が良いよね。でもまぁ、それぐらいでないとつまらないな。これから先、当分一緒にいる事になるだろうし」
「…?」
話が全く見えず、ハルは首を捻った。
「あのー、ちょっと良いですか?」
教師に質問する生徒よろしく片手を挙げ、ハルは発言の許可を求める。
少年は顎の動きだけで許しを示した。
「貴方一体、何者なんですか?」
ハルは少年の背中から大きく生えている、黒い翼に目をやった。
普通の人間はこんなものを持ってはいない。
こんな翼を持っているのは、宗教関係の本とかによく出てくるあの――。
「僕は、君達の世界でいうなら…そうだね…。悪魔、と呼ばれているんじゃないかな」
悪魔。
少年の言葉を反芻して、ハルはその意味に眩暈を覚えた。
そうだ、あの黒い翼は悪魔が持っていた。
天使が白い翼で、悪魔が黒い翼。
何度も何度も、様々な本で見た事がある。
今目の前にいる少年もまた、同じ翼を有しているのだから、悪魔というのも納得がいく。
けれど悪魔は果たして、この世に本当に存在していただろうか?
「……………」
たっぷり30秒はハルは黙り込んでしまった。
頭の中を整理しつつ、現状を把握しようとしているのだが、その時間はどうやら少年はお気に召さなかったらしい。
「ねぇ、名前ぐらい名乗ったらどうだい?」
苛々した口調で促され、ハルは頭の中をグルグルさせた状態のまま、己の名前を口にする。
「三浦ハル、です」
「そう。僕は雲雀恭弥。…不本意だけど、これで契約成立だね」
契約…。
少年の口にしたその単語は、妙に重くハルに圧し掛かった。
そこで我に返る。
「契約!?」
悪魔の契約といえば、主に命が上げられている。
本で得た知識を思い出し、今はグルグルと頭を悩ませている場合ではないと、ハルは少年へと視線を向けた。
すると、思いがけず相手の顔が間近にあった事に絶句する。
「まずは前払いで貰うよ」
雲雀なる少年はハルの顎を片手で捉え、ゆっくりと口付けた。
途端に、ハルの身体に甘い痺れが走る。
力が抜けて行く感じの、堪らない快感にハルは思わず目を閉じてその行為を甘受してしまう。
どのぐらいの時間が経ったのか、気付けば雲雀の顔は離れていた。
とろんとした目で床に立つ少年を見上げ、そこで重大かつ大変な事実にハルは気付いた。
「いやあぁぁぁああ!ハルのファーストキスがあぁぁー!!」
絶叫しすぎたのか、興奮しすぎたのか、はたまた思い出した事実に衝撃を受けた為か。
ハルは叫ぶなり、そのままバッタリと気を失ってしまったのだった。