今日をかぎりの命ともがな








ざわり、とした感覚で目が覚めた。
初めに見えたのは、不気味なまでにシンと静まり返った空間。
真っ暗闇の中だった。
「……ここ、何処…」
声を出した途端、胃の中心が急激に熱くなり咳き込んだ。
まるで胃が焼ける様な錯覚を覚え、嘔吐感が込み上げて来る。
「ぅ、ぐっ…」
片手を口元に当て、不愉快な衝動を必死で抑える。
吐いた方が楽になれると解ってはいたが、波に乗ってやってくる塊を必死で胃の中へと戻した。
何度か息を止めて波をやり過ごし、漸く咳も収まってきた頃、室内に細い光が差し込んだ。
「なーんだ、もう起きたのか。クスリの量、足りなかった?」
その声は楽しそうな口調で、ハルの耳に飛び込んで来た。
「だ、れ…ですか」
ゼェと苦しい息を吐き出し、辛うじてそれだけを口にする。
「ん、オレ?」
咳は止んだものの、胃の中は相変わらず焼け付く様に痛む。
「さて、だーれだ?」
おどける様に笑いながら、人影は室内へと足を踏み入れて来た。
相手の姿は逆光で見えない。
目を細めて初めて、辛うじて輪郭だけが見える程度だ。
体格は細身で、敏捷そうな印象を受ける。
光のせいか、髪先が金色に見えた。
「此処は何処、ですか」
相手が一向に名乗る気配がないので、今度は質問を変えてみる。
けれど相手は真剣に答える気は更々ないらしい。
「さて、どーこだ?」
しししっと愉快そうに笑い、答えをはぐらかす。
「ふざけないで下さい!」
ハルは怒鳴った。
自分の今置かれている状況が解らない不安もあるが、相手の態度に心底腹が立った。
しかし、その直後に再び咳き込む羽目になる。
「元気だね〜」
今度の返事もまた、揶揄する様な口調だ。
しかし、多少トーンが変わった様に思えるのは、果たして気のせいなのだろうか。
「ま、それぐらいの方が楽しいかも?」
必死に相手の姿を探ろうとしていたハルは、しかし一気に明るくなった室内に目を閉じる。
相手が室内の電気をつけたせいなのだろうが、その光は今まで闇に慣れていた目にはきついものがあった。
痛みすら感じる目を抑え、そこで初めて自分の両手に何やら重い枷がついている事に気付いた。
ジャラリと耳に飛び込んだ音。
それに伴う不自然な重みに、衝撃を受ける。
「なにこれ…」
未だ目が見えない為、瞼を落としたまま手元へと顔を落とす。
自分の髪の毛が作り出す影で、漸く僅かに視界を開く事が出来た。
そこでまず見えたのは、長い長い鎖のついた手錠。
銀色で統一された鉄の枷。
「何ですかこれ!!」
本気の怒りを込めて、相手がいるであろう方向へと視線を向ける。
眩い光が目を痛ませるが、それすら忘れさせる程の怒気がハルを覆う。
「何って言われてもなー。…見ての通りじゃん?」
ニィと真っ白な歯を見せて笑う相手が、漸く確認出来た。
その姿を見た時、ハルはまるで王子様が現れた様な錯覚を覚えた。
金髪だと思ったのは、どうやら間違いではなかったらしい。
日本人では有り得ない、綺麗な金の髪がサラリと揺れている。
その前髪は彼の目を隠しており、口元は笑っていても表情は読めない。
頭には、これまた髪に良く映えるティアラが乗っていた。
「誰…」
こんな青年を、ハルは知らない。
今まで見た事すらなかった。
だからこそ解らない。
何故自分がこんな場所に閉じ込められているのかが。
「もしかして、これって誘拐ですか…?」
室内は白い空間だった。
壁も床も天井も、全てが染み一つない真っ白な色彩で埋められていた。
壁際にこれまた白いベッドが一つ、前方と後方に白い扉が一つずつ。
前方は金髪の青年が立っているから、外に出る為の通路へと続いているのだろう。
背後の扉はきっちりと閉められているので、何の部屋かは解らない。
「誘拐…。まぁ、ある意味そうかも?」
うししし、と青年は軽く笑った。
彼はハルの目の前まで歩いてくると、ひょいと身を屈めて顔を近付けた。
数センチ手前まで近付いた容貌に、チャンスとばかりにハルは拳を繰り出す。
ジャランと鎖が盛大な音を立てて空を切るが、拳が青年に当たる事はなかった。
片手だけでハルの拳を受け止め、彼は笑う。
何処か残酷そうな笑みを表情に乗せ、青年はゆっくりと口を開いた。
「無駄、無駄。あんたじゃオレは殴れないよ。こんな細い手じゃ尚更」
つぅ、と青年の舌が掴んだハルの腕を辿る。
蛞蝓が這う感覚に総毛立ち、ハルは手を振り解こうとした。
しかし、青年の力は強く、それすらも叶わない。
彼はハルの反応を見ながら、肘までゆっくりと舐め上げると、漸く舌を離した。
ぞわぞわとしたおぞましい感触に、ハルは唇をきつく噛む。
悲鳴が口をついて出そうになったが、それは矜持が許さなかった。
こんな卑劣な人間に負けてたまるものか、という意識がハルを奮い立たせる。
「誘拐なんて最低です。お金が欲しいなら、ちゃんと働くべきです!」
こんな事を言っても無駄だろうとは思った。
そして案の定、青年は全く意に介していない表情で笑った。
今度は背筋が凍るぐらいの、冷ややかな笑みを彼は浮かべた。
「お金?そんなもん腐る程あるし、欲しいとも何とも思わねーよ」
「じゃ、じゃぁ…」
青年の笑いに、危険信号がハルの中で鳴り響く。
これは本気でマズイと、全身の感覚が訴えている。
「一体何がほし―――」
ハルは最後まで言葉を紡げなかった。
急激に視界が変わったせいだ。
両腕に掛かる重みと、自分に圧し掛かっている青年の身体と、全く動けなくなるぐらいの恐怖。
それら全てが、ハルから言葉を奪った。
「欲しいものはね、三浦ハル。おまえだよ」
再び零距離近くまで顔を寄せ、青年は笑った。
この世には震える事すら出来ないぐらいの恐怖があるのだと、ハルはこの時初めて身を以って知った。









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