今日をかぎりの命ともがな5











何だろう。
酷く身体中が痛む。
骨という骨が、筋肉という筋肉が、ギシギシと悲鳴をあげては引っ切り無しに身体を苛む。
そんな鈍い痛みに耐え兼ね、ハルは目を覚ました。
「……」
うっすらと開いた目は、何処か腫れぼったい。
目元もやたらヒリヒリして痛みを訴えていた。
全身が鉛にでもなったかの様に重く、少しの動作ですら億劫だ。
それ以前に、身体が何かに戒められてでもいるのか、腕が全く動かせない状態だった。
仕方なく唯一動かせる瞼で、何度か瞬きを繰り返す内、ぼやけていた視界が少しずつ晴れてくる。
じんわりと滲んでいた色彩がクリアになった途端、視界一杯に金色の髪の毛が現れた。
蛍光灯に照らされずとも、まるでそれ自体が発光しているかの様に、キラキラと光ってハルの目に鮮やかな色を残す。
さらりとした感触が幾本かハルの頬に触れた。
見覚えのある、青年の顔。
輪郭がぶれて見えるぐらい、それは間近にあった。
相変わらず目元は前髪に隠されて見えないが、その規則正しい呼吸音から相手が寝ている事が解る。
そこで初めて、身体を戒めている物の正体が、この青年の腕だと解った。
「…っ」
反射的に身体を起こそうとするが、青年の腕がそれを阻む。
寝てはいても力強い腕に、ハルはしっかりと抱き竦められていた。
「ん…」
青年の唇が動き、小さく声を発する。
何故かその瞬間、ハルの心臓が一度大きく鳴った。
「……嘘…」
一度だけとはいえ、高鳴った心臓はハルを混乱に陥れるには十分な材料だった。
「じょ、冗談じゃありませんっ」
小さく毒づき、青年から顔を背ける様にそっぽを向く。
途端に、カラカラに乾いていた喉がはりつく錯覚を覚え、勢い良く噎せ込んだ。
腕の中で跳ねる身体と咳き込む音に、流石に青年も目を覚ましたらしく、片手を解くとベッド脇に設置されていた白いサイドテーブルからペットボトルを持ち上げ、蓋を外した状態でハルの口元へと持って行く。
必死で飲み口に顔を近づけるハルを支え、ゆっくりとボトルを傾ける。
こくこくと喉を鳴らしてミネラルウォーターを飲み下すハルを、青年は何も言わず黙って眺めた。
ボトルの中身を半分まで減らしたところで、ハルは漸く落ち着きを取り戻し、ペットボトルから口を離して青年の方を向いた。
「もう大丈夫?」
何処となく優しい声音で、青年は尋ねる。
ハルが黙って頷くと、ボトルをサイドテーブルへと戻した。
そして互いに見詰め合う。
無言の時が過ぎて幾分か経った頃、最初に口を開いたのは青年の方だった。
「痛い?」
何処を示した言葉かは解らなかったが、ハルは怯えた様に僅かに後ずさる。
その様子に小さく笑うと、青年は腕を伸ばしてハルが逃げる前にその腕を掴んだ。
「痛いよな、そりゃ。オレが散々痛めつけたんだし」
しししっと下卑た笑い声を発すると、掴んだ腕を引き寄せる。
「そいや名前、まだ言ってなかったっけ。オレはベルフェゴール。改めて宜しく」
暴れようとするハルを無理矢理抱き込み、青年――ベルフェゴールはハルの髪の毛を梳いた。
普段はポニーテール状態で纏められている髪の毛は、今はゴムが外された状態でやや乱れたまま下ろされている。
恐らくは事の最中に外れたのであろう、ゴムは床の上に転がっていた。
「………」
その事を思い出したのか涙を滲ませ、しかし唇を噛み締めて嗚咽を堪えるとハルは目を逸らした。
無言の相手に肩を竦めるも、ベルフェゴールは特に自分の方を向かせようとはせずにおいた。
これから先、彼女はこの部屋で暮らす事になるのだ。
話す機会も、顔を合わせる機会も、幾らでもある。
そう、ハルは自分だけのものとなったのだから。
そう考えると、どれだけハルの反応がなくとも、余裕を持って接する事が出来た。
「あぁ、そろそろ晩飯の時間だな。ちょっと持ってくっから、待ってて」
部屋に時計は無くまた窓もない為、正確な時間は解らないはずだが、ベルフェゴールはそう言うなりハルを離してベッドから降りた。
「すぐ戻るから、良い子にしててな」
ハルの頭を撫でると、ベルフェゴールは部屋から出て行った。
一段階明度が落とされた明かりの灯る室内に取り残され、ハルはベッドの上に蹲る。
寝ている間に身体は綺麗に清められたらしく、ベタついた箇所は何処にもない。
しかし事の痕跡は、くっきりとハルの身体に刻まれていた。
痛む節々や痣もそうだが、何より下腹部に走る鈍い痛みが、何よりも雄弁に情事の事実を語っている。
「…ぅ、う…」
裸の身体を抱きしめ、シーツに顔を埋める。
ベルフェゴールの前では漏らさなかった嗚咽が、一人になった途端口をついて出た。
「う、あぁ…っ」
次々と溢れ出てくる涙は、肌触りの良いシーツに落ち、じんわりと染み込んで行く。
穢れてしまった身体が、どうしようもなく厭わしかった。
未だにベルフェゴールを受け入れた名残が、身体のあちらこちらに残っている。
これは恐らく一生消える事はないのだろう。
感覚は薄れるかもしれないが、記憶は何時までも残り続ける。
「ヒバ……、さっ…」
嗚咽の合間に搾り出す声は、自然と恋人の名を呼んだ。
もう二度と会えない人物の名を。
例えこの部屋から出られたとしても、一緒にはいられない人の名を。
どんなにか自分を探してくれているだろう。
どんなにか自分を心配してくれているだろう。
けれど、もう駄目なのだ。
彼に会う事は出来ないのだ。
こんなにも、こんなにも好きな人なのに。
「…ひ、…っく」
今のハルに出来るのは、ただ声をあげて泣く事だけだった。




トンファーが、コンクリートの壁に突き刺さる勢いで減り込んだ。
かと言ってそれで攻撃の手が止む事はなく、壁に追い詰められた男の腹部を膝で蹴り付ける。
身体をくの字に曲げて白目を剥いた男の襟を片手で掴み、雲雀は低い声でもう一度尋ねた。
「ベルフェゴールの居場所は?」
殺気を隠す事もなく、間近で相手を睨み据える。
「し、知らね…ぇっ」
意識を飛ばしそうになった男は、しかしそれが許されず、口の端から泡を吹きながら必死の思いで言葉を紡いだ。
当然、それで雲雀が納得するはずもない。
男の足の付け根にある急所を靴の爪先で押さえ付け、獰猛な笑みを唇だけに浮かべた。
「ここ、潰されたいの?言わないと地獄を見るよ」
「ほ、本当に知らねぇんだ!ベルフェゴール様は、もう5日近くも行方不明になってて…!!」
「ふぅん。それじゃ用はないね。死になよ」
言うなり雲雀は足先に力を込めた。
グシャリと何かが潰れる感触が伝わり、辺りに絶叫が轟き渡る。
それに被さって、雷鳴と豪雨が空から降って来た。
股間から夥しい量の血を流し、悲鳴を上げ続け地面を転がっている男に背を向け、雲雀はその場から立ち去る。
豪雨はあっと言う間に雲雀の全身を濡らし、重く纏わり付いて来た。
一歩一歩進む度に、足元に掛かる重圧が増して行く。
それでも雲雀は歩くのを止めない。
壁から抜き取ったトンファーを手にしたまま、殺気を撒き散らして道を辿る。
先程追い詰めたベルフェゴールの部下からも、結局は何の情報も得られなかった。
今日で丸々4日、無駄に費やしてしまった。
走り回り、手当たり次第にベルフェゴールの関係者を締め上げ、数え切れないぐらいトンファーを血で染め上げた。
けれど、一向にハルの居所は掴めていないままだ。
「…っ」
大きく舌打ちし、トンファーを壁に叩きつける。
コンクリートの欠片が宙を舞い、足元に転がり落ちた。
「三浦……っ」
今こうしている間にも、彼女は泣いているかもしれない。
ベルフェゴールの手によって、手酷い目に合わされているかもしれない。
それなのに、何故自分は此処にいる?
何故、何も出来ずに立っているのだ?
怒りで、今にも気が狂ってしまいそうだ。
ガンガンと何度もトンファーをコンクリートに打ち付け、行き場の無い憤りを沈めようとする。
けれど冷静になろうと思えば思う程、怒りは増幅していく一方だった。
「恭弥」
トンファーに額を押し当て目を閉じていたその時、不意に耳に飛び込んで来た声に、雲雀は顔だけを其方へ向ける。
其処に立っていたのは、すっきりとした長身の若い男。
自分が未だ勝てないでいる相手、ディーノだった。
「何の用」
殺意を漲らせた冷たい視線で相手を見遣り、雲雀はトンファーを下ろす。
怒りをぶつけていた壁は既にボロボロで、見るも無残な有様になっていた。
「お前、やり過ぎだぞ。さっきの奴は病院に送ったから良い様なものの……」
「貴方には関係ない」
即座にそう応え、そのまま踵を返そうとした瞬間、何かが空を切る音が鼓膜を震わせる。
反射的に音の聞こえた方へとトンファーを繰り出せば、鞭の切っ先がトンファーに弾かれる光景を目の端に捉えた。
「…どういうつもり?」
「それはこっちの台詞だ。お前、このままじゃ何時か誰かを殺すぞ」
「………」
ディーノの真剣味を帯びた言葉に、雲雀は暫し沈黙した。
しかしすぐに唇は開かれ、いっそ艶やかとも言える笑みに彩られる。
「今更だね」
先程まで辺りに漲らせていた殺気は綺麗に消え失せ、代わりに深い深い決意が雲雀の面を支配していた。
その余りの表情に、ディーノは思わず息を呑む。
「もし三浦に傷一つでも付いていたら」
雲雀はゆっくりと、しかしハッキリとした口調でディーノに告げる。
「誰であろうと、僕はそいつを殺すよ」







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