うしと見し世ぞ今は2













扉を抜けて入って来た青年の顔は、ハッキリと不快さを訴えていた。
「どしたの、正チャン。やけにご機嫌斜めだね」
足を組んだままもそもそと菓子を頬張っている男を、殆ど睨み付ける形で正一は両手を男の執務机の上に叩き付ける。
「………白蘭サン。ハルは本当に自ら望んで此処へ来たんですか?」
鼻先を付き合わせんばかりの距離感に、白蘭は愉快そうに目を細める。
「やっぱり原因は彼女だったね。だと思ったけど」
「茶化さないで下さい!」
間近で叫ぶ正一の口の中へマシュマロを投げ込むと、白蘭はヒョイと身を離して椅子の背凭れに身を預けた。
「別に茶化してないよ。正チャンがそんな必死になるなんて珍しいと思ってさ。研究第一な君が、わざわざ僕の所まで来るぐらいだから、よっぽど気に入ったんだね」
「それは…」
正一が口篭ったのは、マシュマロを噛み砕いているからか、それとも気まずい思いがあるからか。
後者の方が理由は強いだろうと、白蘭は人差し指を正一の唇に押し付けた。
「それじゃ、僕がハルと寝ちゃってるって知ったら、正チャンは怒るかな?」
「………っ!」
反射的に正一の身が離れた。
その両目に一瞬だけ閃いた怒気を白蘭は見逃さず、変わらず笑顔を浮かべたまま返事を待っている。
ブル、と拳を握り締めた正一の腕が震えた。
「知ってます。あれだけ度々寝所に呼びつけてれば、僕でなくても気付きますよ…」
先程からその拳が小刻みに動いている事に、果たして本人は気付いているだろうか。
クスリ、と笑いが零れる。
先行きの無い想い程、端から見ていて面白い物は無い。
「ハルは止めておいた方が無難だと、僕は思うけどねー」
「そんな事、貴方に関係ないじゃないですかっ」
視線を合わせず叫ぶ姿に、笑いが止められない。
ハルを正一の傍に置かせた時は、まさかこんな展開になるなんて予想もしなかったのだけれど。
この世の中は予想外の事が多過ぎて、お陰で退屈しなくて済む。
「彼女はもうこの世界に居ないよ」
「…は?」
怪訝そうな表情に、白蘭はマシュマロを一つ袋の中から摘み上げた。
正一の目の前で掲げると、二本の指でその柔らかな弾力を見せ付ける。
「勿論、死んだって意味じゃないのね」
「それは解ります。さっきハルから携帯で連絡を受け取ったばかりですから」
弄ばれるマシュマロに視線を当て、正一は握っていた拳を開放した。
爪痕がくっきりと残った手の平を後ろに向け、マシュマロの行く末を見つめている。
「正確に言えば、ハルの心だね。精神と言っても良い」
「自我が壊れたと…?」
「それに近いけど、少し違うかな。ハルはね、この世界に残る事を諦めた子なんだよ」
「全く意味が解りません」
「ん。正チャンにはちょっと難しいかな?簡単に言うと、ハルは常に別の世界を見てるって事」
白蘭が指先に軽く力を込めると、マシュマロが二つに分断されて机の上へと落ちて行く。
それぞれ違う場所へと転がった欠片の一つを示し、白蘭は正一へ視線を注いだ。
「こっちがハル。彼女の周囲には何も無いのね。ブラックホールみたいな、虚無の空間が彼女がいる世界」
「………」
無言の正一に、今度はもう一つの欠片を指差す。
「で、こっちが正チャン達の居る世界。雑音に溢れていて、喜怒哀楽が満ちている場所。ハルの居る世界とは真逆だね」
「…ハルは、何時から其処に…」
呆然とした口調に、白蘭の片眉が上がる。
「恐らくはこの組織に来た時からじゃないかな。完全にあっち側に行っちゃったのは、沢田綱吉君を殺した瞬間だろうけど」
「………」
再び無言へと戻った正一に、片手を出す様に促す。
白蘭は机の上に転がったままの、2つの欠片を持ち上げて、分断面を合わせてピタリと元の形に戻した。
やや歪な形で復元されたマシュマロを、正一が出した手の平へと落とす。
落ちたマシュマロの直ぐ横に、深い三日月形の爪痕を見つけて、白蘭は口元に笑みを刻んだ。
「只ね、彼女がこっちに戻って来る時はあるんだよ」
「?」
視線をマシュマロに落としていた正一が、顔を上げて白蘭を見る。
答えを知りたがっている色合いを確認して、白蘭は人差し指を正一の手の内にあるマシュマロへ向けた。
「それ」
「これ…ですか?」
「うん、それ。離れた世界がくっついた時。そんな時間だけ、ハルはこの世界を見る事が出来る」
「それは………」
明らかな動揺が正一の顔に出る。
「ん。一番簡単なのがセックスしちゃう事だね。一時的にせよ繋がるから、その時だけ引き戻せるよ」
「だっ…。だから、白蘭サンは彼女と…?」
「まぁね。ハルからはまだ聞きたい事もあるし。それに…」
「それに?」
「此処から先は、秘密。正チャンでも教えてあげない」
「何ですかそれは…」
何処かグッタリとした表情の正一に、白蘭は新たなマシュマロを放り投げた。
慌てて受け取る姿に、自分も袋から漁った白い菓子を口に含む。
「そうそう。さっきの正チャンの質問だけど、半分は正解で半分は不正解ってとこかな」
「半分ですか」
「ハルがこの組織に来た時の事、覚えてる?」
「はい。…あの時の事は、忘れられそうもありませんよ」
恐らく一生。
正一が言えなかった台詞を聞き取り、白蘭は小さく笑った。
あの当時の記憶は、白蘭の脳裏にも刻み込まれている。
自分も又、正一と同じく、永遠に忘れる事は無いだろう。
「そう望んではいたけれど、彼女は来たくて来たんじゃない。来なきゃ行けないから来たのね。もっと言えば、此処に来るより他は無かった」
「沢田を殺すと決めていたから…、此処にくればボンゴレから身を隠せるからですか?」
「ううん。あの時のハルは、自分が死んでも良いって言ってたから違うだろうね。今となっては、自分の生き死にすらも興味の範囲外みたいだけど」
「ちょ…ちょっと待って下さい。話が複雑で、サッパリ見えないんですけど………」
「そんなに悩む事じゃ無いよ」
額を押さえる正一に、菓子袋を机の上に放り出す。
殆ど中身の無くなった袋が、パサリと乾いた音を立てた。
「沢田綱吉君を殺す為、ハルは結果的にミルフィオーレを頼るしかなかった。だから来た、それだけだよ」
「利用する為に?」
「そうだね。利用して、利用される為に来た。彼を殺すのは自分でなくてはならない。けれど、それには理由が必要で、考え抜いて出した結果が『裏切り』だった」
ポンポンと飛び出す単語に、正一が首を振る。
理解し得ないとばかりに。
「どうして其処までして、沢田を殺す必要があったのでしょうか…」
「それはハルにしか解らないね。気になるなら、彼女に聞いてみたら?」
「そう、ですね…そうします」
「まぁ今更ハルをボンゴレに返す気も無いし、彼女にはまだまだ役立って貰うつもりだから。これからもハルとは寝るよ?」
揶揄を含んだ言葉に、正一の頬に朱が差す。
「別に僕に許可を取る必要はないでしょう」
「ま、そうなんだけど、一応ね」
再び握られた正一の拳の中では、間違い無くマシュマロが砕けてしまっているだろう。
感触的にも気持ち良い物ではない筈だが、今の彼にはその感覚すら無いのかもしれない。
それは単に、ハルへの想いがそれだけ強いからか。
「それじゃ、仕事もありますし…そろそろ失礼します」
「あれ、もう帰っちゃうんだ?もっとゆっくりして行けば良いのに」
「今はボンゴレを追い詰める大事な時期ですから、これでもかなり忙しいんですよ…」
本当の理由は別にあるだろうが、白蘭はそれ以上追求しようとはせず、片手を振って見送った。
扉の閉まる無機質な音が、静かになった室内に響く。
防音効果の高いこの部屋では、この部屋の外で稼動しているモーター音さえ届かない。
「その忙しい最中、電話でも聞ける事を、わざわざ出向いてきたのはどっちなんだか」
クスクスと音を立てて笑いながら、白蘭の指先がマシュマロの入った袋へと伸びる。
片手に袋をぶら提げてひっくり返すと、5つのマシュマロが机の上へと散らばった。
「ハル、僕、正チャン、綱吉君…それに、後一人」
それぞれを一つ一つ示し、最後に遠く離れた場所へ転がっているマシュマロに指先を止める。
ハルが無意識に呟いた名前を思い出す。
恐らく、それが最後の一つ。
「因果な関係になったもんだね。それもまた一興ってとこなんだけど」
ピンと音を立てて、最後のマシュマロを指先で弾き飛ばす。
見事な曲線を描いたそれは、磨き抜かれた床の上へと飛んで行った。
「さて、正チャンはどう出るでしょう」
視界から消えたマシュマロにひっそりと目を細め、空になった袋を後ろへと放り投げる。
「ハルを完全に此方へと引き戻せる可能性を持つ存在が、綱吉君以外にまだこの世に残っていると知ったら――」
それを知った時の正一の顔を想像して、楽しみが一つ増えた事に思い至る。
ならば、それはそれで見物かもしれない。
尤もその時は、自分もそれなりの覚悟を決めなければいけないだろうけれど。
白蘭は机の上に設置してあるモニターに手を伸ばすと、簡単な操作と共に専用の電話回線を呼び出した。
「…はひ?」
寝ぼけた顔のハルが画面に映し出される。
どうやら眠っていたらしい。
真夜中を過ぎているこの時間帯では、それも当たり前なのだが。
「ハル。寝てるとこ悪いんだけど、直ぐにこっち来て」
にっこりと笑みを浮かべたまま、白蘭は無体な命令をハルへ下す。
「今からですか?」
「うん、今直ぐ。正チャンには僕の方から連絡入れとくから」
「…解りました」
ぼんやりした表情のまま、ハルは頷くと通信を切った。
呼び出された理由が解るだけに、余り話をしていたくないのかも知れない。
無理矢理に意識をこの世界へと引き戻す行為が、自然と彼女に嫌悪感を抱かせている事は、前々から白蘭も気付いていた。
本人は自覚していないであろうその感情を、今は自分だけが引き出す事が出来る。
それだけに、他のイレギュラーな存在は成るべくなら避けたいのが本音だ。
だが、それでは面白く無い。
張り合える存在が居てこそ、達成感もあるという物。
正一はその数少ない存在になり得るかどうか微妙な線ではあるが、もう一つの存在は確実にその地位へと立つだろう。
「名前…何だっけ。濁点が付いてた気はするんだけどなー」
机に頬杖を付いて考える。
指先で先程ハルと名付けたマシュマロを転がしながら、つい最近の記憶を思い返す。
行為の最中に他の男の名前が出てきた事が、少し腹立たしかった覚えがある。
そう、あれは確か――。
「あぁ、獄寺隼人君だ」
沢田綱吉の右腕とも呼ばれている存在。
そして、ボンゴレファミリーの中で、綱吉の次に三浦ハルの一番近くに居た人間。
「報われないねぇ…」
それは誰に向けた物だったのか。
自分自身ですら解らない言葉を、白蘭は笑いと共に吐き出した。






雨の降る日だった。
激しい豪雨があっと言う間に血を洗い流し、まだ温もりのあった沢田綱吉から体温を奪い去ってしまった。
部下が駆け付けた時にはもう、沢田綱吉は冷たい死体と化していたと言う。
その時には既にハルの姿も無く、又彼女が雇用した運転手の姿も消えていた。
屋敷にあった彼女の私物は完全にそのままで、彼女はどうやら身一つで何処かへと消え失せてしまった様だ。
緊急で開かれた上層幹部会議で告げられたのは、ファミリーのトップを殺したのは彼の秘書――即ち、三浦ハルという事実だった。
まだ10代前半という若さながら、世界最強の暗殺者として知られるリボーンの口から下された命令に、その場に居た一同は皆厳しい表情でそれを受け入れた。
例え相手が自分の良く知る人物だとしても、裏切り者は始末する。
それがマフィア世界の掟だ。
何よりその裏切り者は、ファミリーの頭を消したのだ。
酌量の余地は無い。
「…何でハルが…」
部屋から散会した獄寺の横で、山本が小さく唸りを上げている。
とても信じられないと、僅かに俯いた顔が語っていた。
「どうしてもクソもねぇ。今更理由なんか考えて、何が変わるんだ?意味の無い事するより、やるべき事をしろ」
冷たく返した獄寺に視線を移し、山本は首を振る。
「そういう問題かよ。お前は何とも思ってねーのか?」
「思わねぇな。あいつはもう敵になったんだ」
言葉と同じく冷ややかな横顔に、山本の口が噤まれる。
今の獄寺の心情が手に取る様に解ったせいだ。
長い付き合いは伊達では無い。
「行くぞ」
踵を返して先に歩き出した後姿を、山本は何とも言えない表情で追い掛けた。




どうして、気付かなかった?
頭の中で荒れ狂う感情を、外壁へと拳と共に叩き付ける。
脳裏に浮かぶのは、綺麗な笑顔で問いかけて来るハルの姿だ。
あの時は全く意味が解らなかった。
今も完全に解るとは言えない。
けれど、その叫びだけは痛い程に聞こえて来る。
万華鏡の様にグルグルと目まぐるしく廻りながら、ハルが静かに笑っているのが見える。
笑顔の下に隠されていた悲鳴が、何故今になるまで解らなかったのか。
「くそ、くそ…クソッ!」
血に塗れた拳に、外壁の欠片が突き刺さる。
飛び散った血液が顔を濡らすも、獄寺は拳を止めなかった。
先程までは傍に居た山本は、既に部下へと指令を出しに離れている。
だからこそ出せるこの感情を、ただ只管に壁へと打ち付け続けた。
もっと早く気付いていれば。
否、あの時にハルの言葉を理解していれば。
そうすれば、こんな事には決してならなかった筈だと言うのに。
「それぐらいにしておいたら?」
不意に聞こえて来た声に、再び振り上げた拳を止める。
「てめぇか…。今まで何やってたんだよ」
聞き覚えのある声に振り返ると、トンファーを両手に提げた男が立っていた。
撒き散らした殺気を向けても、無表情のままで此方を見ている。
昔も今も然程変わらない雲雀恭弥の姿に、獄寺は吐き捨てる様に口を開く。
「会議はとうの昔に終わってんだ。詳しい事は山本にでも聞いとけ」
「そっちはどうでも良いよ。知りたい事は、今此処にあるんだからね」
「…俺は今機嫌悪ぃんだ」
「僕も、余り良くは無い」
スラリとトンファーを構える雲雀に、獄寺もまた拳を下ろして爆弾へと伸ばす。
懐へ忍ばせていたダイナマイトを引き抜こうとした途端、雲雀の足が一歩踏み出された。
瞬間的に退こうとした身体は、しかし拳に付いた傷の痛みに僅かに遅れてしまう。
其処へトンファーの一撃が振り下ろされる。
何時もの自分であれば腕で防ぐ所だが、これまた痛みのせいで遅れを取る。
痛恨の一撃が、脳天に叩き付けられた。
「…ガッ……」
重い衝撃に身体がグラリとよろめくが、壁に手をつき、辛うじて倒れる事は免れる。
続けて二度三度トンファーが襲い掛かるも、今度は身を捻る事で何とか避けた。
体勢を変えたせいで、ドロリと額から濃厚な血が流れ落ちる。
荒い息が肩を上下させ、酷く視界が霞んだ。
けれど、それとは反対に思考の方は不思議とスッキリとしていた。
殴打されたお陰と言うべきかもしれない。
とはいえ、目の前で今も尚トンファーを構えている男に感謝する気など更々ないが。
「君が後悔するのは勝手だ」
雲雀の言葉が頭に染み入る。
普段は願い下げのその声音も、今の自分にとっては必要な事の様に思えた。
「けれど問題はそれだけに留まらない」
あぁ、解ってるさ。
ハルが10代目を殺した。
その事実は、どう足掻いても変わる事が無い。
山本に突き付けたばかりの言葉を噛み締め、獄寺は傷口を押さえる様に片手を額に押し当てた。
そうだ。
10代目は殺されたのだ。
「てめーに言われるまでもねぇ…」
血は止まらない。
眩暈も止まらない。
脳裏を渦巻く、ハルの笑顔も悲鳴も、見えるし聞こえたままだ。
けれど、自分は10代目の右腕であり、ボンゴレマフィアという組織の上層幹部なのだ。
それならば、迷う事など一つも無い。

「三浦ハルは、俺が殺す」

雲雀と自分、そしてファミリーへと宣言した言葉に、引っ切り無しに聞こえていたハルの悲鳴が消えた。
残されたのは笑顔だけ。
満ち足りた微笑を浮かべた、幸せそうな表情だけ。
それこそが望んでいる事だと、言わんばかりのハルの姿に、獄寺は両目を閉じる。


これは俺からの償いだ、ハル。
この手で必ずお前を殺してやるから。
だから、もう泣くな。


今は此処に居ないハルへと語り掛ける獄寺に、雲雀は小さく息を吐いてトンファーを下ろした。
そして、ふと空を仰ぐ。
暗雲が立ち込めている天に、湿り気を帯びた風が髪を揺らせる。
激情の雨が、再び直ぐ傍まで来ていた。







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