うしと見し世ぞ今は3














思考が日に日に薄れて行く。
時折自分が何をしているのか解らない日すらある。
記憶障害。
そう宣告されたのは、もう2ヶ月も前の事。
原因不明の病だと、医者はそう首を振っていたが、そんな事はどうでも良かった。
問題なのは、治る見込みがないという結果。
そして、ハルにそれを知られてしまったという事実。
更に最悪だったのが、記憶障害を起こしている間、善悪の区別がろくにつかない事だった。

最初は、小鳥。
可愛くて綺麗な声で鳴くからと、ハルが執務室まで持って来てくれた鳥だ。
薄青い羽色が気に入って、仕事中は窓の傍に鳥籠を置く様にした。
小さな囀りが、仕事で疲れた頭を癒してくれたのを覚えている。
それが、気付けば両手の内で死んでいた。
何かで圧縮されたかの様に、ふっくらとした胴体が平たくなっていた。
「………」
血に染まった両手と、潰れてしまっている小鳥を呆然と見下ろす。
誰がやったのか。
そんな事は解りきっていた。
「ツナさん…?」
小さな声にのろのろと顔を上げると、扉を半分開いたハルが立っていた。
鼻腔を擽る甘い香りに、紅茶を淹れて来てくれたのだと解る。
大きく見開いて此方を見る目に、呆然としたままの自分の顔が映っている。
ハルの目に映った自分が、まるで子供の様に無邪気な笑みを浮かべるのが、ぼんやりと霞がかった視界の端で見えた。

次は、犬。
屋敷の庭にはドーベルマンを数匹、常に放し飼いにしてあった。
どんな侵入者でも一撃で仕留める獰猛な爪と牙で、何時もこの自分を守ってくれていた。
頭も良い犬達ばかりで、自分にとても良く懐いてくれていたのが思い出される。
それが全て、地に転がっていた。
まるで物か何かの様に、ゴロゴロと放り出されていた。
幾つも横たわっている犬達は、全て首が折れ曲がっている。
口から泡を吹いている事からしても、相当に苦しい死に方だったに違い無い。
「ツナ…」
重い声に振り返ると、其処にはリボーンが居た。
そして、その斜め後ろにはハルの姿もある。
「ハル。こいつを部屋に…」
低い声に、ハルは一つ頷いて前に出た。
リボーンの表情は、帽子の影に隠れて見えない。
「歩けますか?」
腕を引っ張られ、其処で自分が地に座り込んで居た事に気付く。
「………」
無言で立ち上がると、ハルが服についた泥を払ってくれた。
母親の様なその仕草に、何処かホッと安堵する。
けれど…。
振り返った背後では、リボーンが犬の死体を前に、携帯で誰かに指示を出していた。
その際、チラリと此方を見たその視線は、何処か痛まし気な光りを帯びていた。

そして最後は――人間。
透明な濃厚のガラスで出来た灰皿が、砕けて割れる音で我に返った。
部屋に飛び込んで来たのはやはりハルで、状況を把握するなり扉を静かに閉めて鍵を掛けた。
誰も入って来られない様にとの配慮からか、それとも自分を部屋の外へ出さない為か。
恐らくはその両方で、そして自分は又しても呆然とするだけだった。
何も出来ず、床に伏したままの背広姿を見下ろす。
この男は、一体誰だったろう。
記憶が曖昧で、視界がやけにグラつくのはどうしてだろう。
「ツナさん」
名前を呼ばれても、それが自分の物だという実感が沸かない。
「ツナさん、しっかりして下さい」
軽く身体を揺さぶられ、視線を移すと見知らぬ女性が居た。
「…誰?」
そう尋ねた瞬間、女性の顔が悲し気に歪む。
「座って下さい。此処に」
表情とは裏腹にしっかりした声で、彼女は近くのソファへと自分を座らせた。
やけに脱力感が酷く、言われるままに腰を下ろす。
視界の端に指先が見え、夥しい血が下敷きに彩られていた。
その光景に首を傾げる。
どうしてこの部屋に、あんな物があるのだろうか。
先程まで、誰も居なかった筈だと言うのに。
「…君が、やったの?」
部屋に据え付けられている内線を取り上げた女性が、驚いた様に受話器を取り落とす。
ガタンと、静かな室内に重い音が響いた。
一瞬の沈黙。
そして、何かを決意した表情で、彼女が振り返る。
「そうです」
落とした受話器を拾い上げ、彼女は唇の端を歪ませて笑った。
「ハルが、やりました」


自分が何処に居るのか、自分が誰なのか解らない不安。
耐え難い恐怖感と、救われる術の無い孤独感。
我に返る度に身の毛もよだつ様な絶望が襲い来る。
明日はまだ自分で居られるだろうか、明後日はまだ話していられるだろうか。
そんな事ばかりが頭を巡る毎日。
しかし、それすらも忘却の彼方へと流されてしまった瞬間、人は生きながらにして歩く死体となる。


窓を流れる景色は、ずっと雨模様だ。
防弾装備の完璧な車内に居ても、屋根を叩く雨粒の音が聞こえて来る。
「何処へ行くの?」
隣に座る女性へと問いかけて、妙に可笑しくなってくる。
自分はこんな喋り方をして居ただろうか。
もっと大人びた言葉使いをしては居なかっただろうか。
首を傾げて考え、不意に出た欠伸に大きく伸びをする。
「?」
…はて、今自分は一体何を考えていたのだろう。
欠伸をする前の事が思い出せない。
窓を流れる景色が、軽いブレーキ音と共に止まった。
「着きました」
女性の声に、目を瞬かせる。
雨の幕のせいで、此処が何処なのか全く解らない。
遠くに大きな建物が見える以外、何も無い場所だという事しか。
「此処…?」
「はい。降りて下さい」
少し厳しい表情の女性について、開け放たれた扉から外へ足を下ろす。
途端、重い雨の音と礫が襲い掛かって来た。
自然と右手が傘を探して彷徨い、そして不自然な位置で止まる。
不吉な暗闇を宿した銃口が、自分の眉間を狙って向けられていた。

「―――ハル?」

最期の最後で名前が出たのが、自分でも驚きだった。
全てを思い出した訳では無い。
断片的にしか、それこそ今まで生きてきた中の1000分の1程度すらも、情報を取り戻せていない。
だが、それで十分だった。
少なくとも、今目の前で泣いているハルの事さえ解れば、それで良かった。
驚愕の表情と、轟音。
迫り来る死神の弾丸に、目を閉じる事無く、ハルを見つめる。
酷い事をしてしまったと思う。
何もかも、ハルに押し付けてしまった。
そしてこれからも、自分を殺したという重荷を、ハルに背負わせてしまうのだ。
一番辛い役目を引き受けさせてしまったハルに、しかし自分は微笑んでいた。
自分をこの罪の意識から開放してくれたのが、彼女だという事がとても嬉しかった。

本当に酷い男だな、俺…。

額の熱い感触に、意識が一気に闇へと落ちて行く。
身体中の力という力が抜けて、頭から地面へと倒れた。
それを痛覚として認識する能力は既に自分に無く、辛うじて残っていた視力でハルを見つける。
雨と涙で濡れた顔は、ぼやけて直ぐに見えなくなった。
そして、暗転。






ハルは目の前に差し出された手を取り、引き寄せられるままに身を預けた。
白蘭の匂いにも既に慣れてしまった身体に、ぼんやりと思考を巡らせる。
シュルリと音を立てて胸元のリボンが解かれ、シーツの上を滑り床へと落ちて行った。
「今日はあんま嫌がんないね。ひょっとして、慣れちゃった?」
「………っ」
首筋を這い上って来る舌の感触に、ビクリと身体が跳ねる。
こんな行為、慣れる筈が無い。
余程言ってやりたい台詞を飲み込み、ハルは小さく息を乱した。
じわじわと熱くなって行く全身に、意識が引き戻されて行く。
思い出したくも無い事が、少しずつ脳裏へと弾けながら蘇ってくる。
宛らカメラのフラッシュにも似た記憶の流れに、知らず顔が苦渋に引き攣った。
「お。今の、凄くそそられるよ」
「あく、趣味…」
無遠慮に内股を探られ、ハルの両手が白蘭の肩へと伸びる。
無意識に引き離そうとする動きを察し、白蘭は噛み付く様な口付けを施した。
「それ、良く言われるよー。何でだろうね」
下着の上からトントンと、指先だけで秘所をノックしながら、意図の読めない笑みを浮かべている白蘭に、ハルの視線が突き刺さる。
「…ぁっ、あ…」
熱い吐息が、耳を塞ぎたくなる様な声と共に漏れる。
止められないそれに、白蘭の笑みが影を増す。
「今日はちょっと早いけど、ハルも気分乗ってるみたいだし。良いよね」
「…は、ぁ……え?」
グルリと反転した視界に、サイドテーブルのランプの光が映る。
そして、その向こう側にある窓も。
「あ…」
外は暗く、何も見えない。
僅かに引かれたカーテンの隙間から、辛うじて闇夜が見えるだけだ。
しかし、音は聞こえた。
天から降り落ちてくる、意識を揺さぶる水音が。
「ゃ、あ――っ!」
前戯もろくに施されていない秘所に、白蘭が一気に入り込んで来る。
「綱吉君の事、考えてちゃ駄目だよ」
身を捩って上へと逃れ様とするハルの両手を捉えて押さえ込み、白蘭が薄っすらと目を細めて覗き込む。
「痛…、ぁ」
手首に指先が食い込まんばかりの力に、ハルは力無く首を振る。
生理的な涙が頬を伝って落ちた。
「今は僕の事を考えて欲しいのね。綱吉君でも、正チャンでも、……彼でも無く」
「か…れ?」
「ん、解らないんならそれで良いよ」
白蘭の指先が手首から離れ、乱れた着衣の前合わせを掴む。
衣を裂く音と共に、ハルの服は盛大に引き千切られた。
ふっくらと息衝いた双丘に、白蘭の顔が寄せられる。
プツリと下着のフロントホックを噛み切られ、ハルの肌が完全に露になった。
白蘭の一挙一動に、どんどんと記憶が明確な形を成していく。
雨の音がそれに拍車を掛ける。
嫌だと首を振っても、白蘭の指先も動きも止まる事は無い。
この世界へ戻りたくない訳では無い。
寧ろ戻って来たい気持ちの方が余程強い。
けれど、駄目なのだ。
此処は自分の居場所では無いと知っているから。
自分はこの世界から弾かれた人間だから、だから戻れない。
こうして無理矢理に引き戻されても、直ぐにまた虚無の空間へと返されてしまう。
それが一番怖かった。
此方の世界を知ってしまえば、望んでしまう事がある。
此方の世界を感じてしまえば、目の前の手に縋ってしまいそうになる。
それだけは、決してしてはいけない。
「ん、…んっ」
揺さぶりを掛けられ、ハルは窓へと視線を流した。


雨は当分止みそうに無い。







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