うしと見し世ぞ今は4
カチャリと静かに扉が開く。
傘を差してはいても、吹き抜ける風に運ばれた雨が濡らしたのだろう。
パタパタと髪先から垂れる雫が室内の床を濡らしている。
「…随分遅かったね」
机の上へ散らかっている紙を脇へと退けながら、小さく声を掛ける。
「まだ起きてたんですか?」
ハルは驚いた様に目を丸くして此方を見た。
「…うん、まぁ。調べ物をしてて、寝るタイミングを逃して………」
薄手のコートを脱ぎながら歩み寄って来る姿に、思わず言葉が詰まってしまう。
ほっそりとした首筋に点々と散った紅の痕。
見せ付けんばかりのその証に、正一は息苦しさを覚えて喉元を押さえた。
「駄目ですよ、ちゃんと横にならないと。机の上で寝ても、疲れは取れないんですから」
「…あぁ、解ってるよ…」
優しい笑みを浮かべたハルから視線を無理に逸らし、何とか言葉を唇から紡ぎ出す。
けれど、どうにも自分の発言が脳に入って来ない。
白蘭がハルに刻み付けた痕跡が、ハルの柔らかい雰囲気が、アンバランスな加減で正一の思考を掻き乱していた。
「ハル…」
「はひ、何ですか?」
今にも部屋を出て行きそうな彼女を呼び止める。
その表情の何処にも、異常な箇所は見当たらない。
どう見ても正常だ。
しかし白蘭の言葉が真実ならば、ハルは既に壊れているらしい。
初めて出会ったのが二ヶ月前。
沢田綱吉を殺したのが二週間前。
その最中に、何処がどう変わってしまったと言うのだろうか。
解らない。
全く以って解らない。
それが解れば、それが解ければ、少しはハルに近付けるのだろうか。
「君は…」
「はい」
不思議そうな表情を浮かべているハルに、どうしても言葉が続かない。
言いたい事も聞きたい事も沢山あるというのに、何故か口が凍りついた様に動かないのだ。
「入江さん?」
ヒヤリとした指先が頬に伸ばされる。
反射的に肩が跳ね上がる程、ハルの手は冷たく凍っていた。
「ちょ…車で帰って来たんじゃなかったのか…っ?」
その余りの冷たさに、先程まで出なかった声が自然と飛び出して来る。
強い語調で椅子から立ち上がると、頬に当てられたままのハルの指先を掴んでいた。
「あ、そうしようかなって思ったんですけど…。雨が降っていたので」
「…雨が降ったら、尚更車で帰って来そうな物だと思うけど…」
ハルの視線がふと窓の外に向けられる。
つられて其方を見れば、外はまだ土砂降りの雨が続いていた。
「まさかとは思うけど、白蘭サンの屋敷から此処まで歩いてきた訳じゃないよね」
雨を見つめるハルの視線が宙を彷徨っている事に気付き、指先を握る力に手を込めて尋ねる。
「………」
けれどハルは窓から視線を外さず、答える事も無かった。
心此処に在らずといった状態で、瞬き一つする事なく雨を見続けている。
「ハル?」
再びの呼び掛け。
ハルの口は開かない。
「ハル」
態と手に力を込めた。
それでもハルの表情は変わらない。
痛がる声も、苦痛を訴える言葉もない。
「ハル!」
手を離して肩に手を掛け、思い切り揺さぶってみる。
其処で初めて、ハルの視線が雨から外された。
きょとんとした無垢な瞳が、何故かゾッと背筋を凍らせる。
「どうかしましたか?」
彼女に浮かぶ聖女の如き微笑に、無性に両腕が震え始めた。
「彼女はもうこの世界に居ないよ」
白蘭の言葉が頭の中で反響する。
静かに、そして大きく。
その言葉の意味が、正一には理解出来なかった。
だが、今なら解る。
彼女はもう此方の世界には居ないのだ。
前にも感じた、神々しい微笑。
それが浮かべられるのは、何も望まない者だけだ。
何を感じる事も無い、何を求める事も無い、そんな人間を超越した者だけが、持ち合わせる表情だ。
僧侶の様だと思った自分は、等しく正しい。
ハルはまさにそんな存在と成り果てていた。
少しだけ違うのは、悟りを開き神や仏へと近付いた彼等に対し、彼女は虚無へと堕ちた事。
何も無い、まさにブラックホールの如き世界へと、足を踏み入れてしまった事。
成る程、愛しい幻想とは良く言ったものだ。
彼女にとって、この世界は既に現実の物として認識されていない。
自分の住まう世界には有り得ない、隣接する幻の様な物なのだろう。
そして事実、そうなのだ。
この世界に彼女の居場所は無い。
彼女が自ら進んで放棄してしまった居場所は、とっくの昔に白蘭が消し去ってしまっている。
ハルも望んだ事とは言え、きっかけは間違い無くあの男だ。
そうする様に促したのも、あの男以外に有り得ない。
居場所を失った彼女には、もう帰る場所が無いのだ。
ただ一つ、白蘭の傍を除いては。
これは最初から仕組まれた事だったのだろうか――?
腹部がじわじわと痛みを訴え始める。
ドッと冷や汗が流れ出して来た。
ハルの両肩を掴む手が、震えながらもまるで石の様に固まったまま動かない。
「入江さん?」
ハルの声が耳鳴りに混じって聞こえて来る。
「いや、何でも…無いよ」
ガチガチに固まった指先を無理に引き剥がし、ハルの両肩を解放する。
震えは止まらない。
「もう、寝た方が……良い。君も、僕も…」
俯いたまま視線を合わせずに、何とかそれだけを告げる。
「そうですね。それでは、お休みなさい」
ハルの表情は見えないものの、其処には今にもとろけそうな甘い笑みが彩られているのが解る。
「お休み」
ハルに与えられた私室、この自分の仕事部屋と繋がっている隣室へと消える後姿に、椅子へと崩れ落ちた。
そして目を閉じる。
どうして良いのか何て、そんな事は考える必要は無かった。
既に手遅れの事態に、どうするも何も無いのだから。
沢田綱吉がハルの拠り所だという事は、もう嫌と言う程解っていたつもりだった。
それを破壊し、白蘭がその座を奪うまでは。
「白蘭サン…、あんた本当に何を考えてるんですか…」
脳裏に浮かんだ、意味深な笑みを浮かべた白蘭に問いかけて見る。
しかし彼が答える事は無かった。
「もう、獄寺さん!どうしてこう直ぐにスーツを破ってしまうのですか!」
「うるせー…。俺は今まで仕事だったんだよ、少しは休ませろ」
ぐったりとソファに身体を投げ出すと、ハルは怒った様に俺をゴロリと半回転させてカーペットへと突き落とした。
「痛ぇ!何すんだてめー…」
見事に打ち付けた額を擦りながら見上げると、仁王立ちしたハルの恐ろしい形相とぶつかる。
「晩の会食の仕事で、どうしてスーツが破れるんですか?しかも今はお昼ですよ」
まるで朝帰りした夫に怒れる妻の様な相手に、獄寺は思わずたじろいだ。
「な、何でてめーにそんな事…」
「つい先程、相手方から電話がありました。獄寺さんが、会食の途中でキレて相手方に殴り掛かったと!しかもその後、その人を引きずって外へと出て行ったまま帰って来なかったとか!!」
「う…」
グイグイと顔を近付けて来るハルを直視出来ず、視線を斜め横へと逸らす。
「全くもう、どうしてそう喧嘩っ早いのですか!ちょっとツナさんの悪口を言われただけで、テーブルの上から相手を締め上げるなんて…」
「仕方ねーだろ!あのチンピラ、身分も弁えず10代目を罵ったんだぜ!?」
「だからって早々手を出して良い訳がないでしょう!貴方は子供ですか!!…それに、幹部がそういう態度取ってると、その上司であるツナさんが侮られかねないんですよ?」
「………っ!」
ハルの言葉は正論で、それ以上の反論は許されない。
「…悪かったよ」
未だに感情では到底理解出来ない事ではあるが、此処は自分が悪かったと認めるしかない。
確かに行き成り手を上げたのは不味かった。
格下とはいえ、仮にも相手はマフィア界でも上層に位置する者達だ。
成るべくなら友好的な関係を築くに越した事は無い。
「はぁ…。幸い、相手方の上の人は話が解る人だったので、ハルが謝罪するだけでも事足りました。でも、後で獄寺さんも一緒に謝罪に行きましょうね」
「………」
「獄寺さん」
「…解ったよ…」
渋々承諾した返事に、ハルの溜息が再び降り掛かる。
「そういう訳で、スーツ新調しますから。それ脱いで下さい」
片手を差し出すハルの手に、疑問が落ちる。
「は?」
「だから、脱いで下さい。破れた格好のままで行く訳にもいかないでしょう?」
「いや待て。まさかこれから直ぐに行くのかよ?」
「当たり前です。本当なら昨夜の内に行きたいぐらいだったんですよ?なのに、肝心の獄寺さんが帰って来なかったんですから」
口をへの字に曲げているハルの目元に、化粧でも誤魔化し切れなかったらしいクマを見つける。
昨晩から寝ずに待っていたのだろう。
そういえば、怒鳴る口調にも何処か疲れが見え隠れしていた気もする。
「わーったよ。直ぐに着替えるから、新しいの寄越せ」
「ベッドの上に置いてます。こんな事もあろうかと、予備を用意していて正解でした」
差し出した手を引っ込めないハルに、獄寺は眉を寄せて首を傾げる。
「…んだよ?」
「だから、その破れたの早く下さい。忘れない内に持って行っちゃいますので」
「………」
逆に怪訝そうな表情を浮かべるハルに、思わず口を開けて見上げてしまう。
「何ですか…その顔は」
「此処で脱げってか?」
「そうですけど」
「お前な…」
カーペットから立ち上がると、態とハルを見下ろす格好で顔を近付ける。
「ガキの頃ならともかくよ。こういう年齢になった男に服脱げってのは、危険なんだぜ?」
「…はひ?」
訳が解らないといった顔に、溜息が零れそうになる。
いい年をした女が、こうも無防備で良いのだろうか。
そっち方面の知識が皆無な訳でもあるまいに…。
「つまりな?時間は今昼間だからともかくとして、場所を考えて発言しろって事だ。此処、一応俺の寝室だし」
「………」
獄寺の言葉に、ハルは何事かを考える表情でカーペットを見下ろしている。
が、その顔は漸く何かを理解した様で、瞬時に赤く染まり、突然平手打ちが飛んで来た。
パシン、と乾いた音が室内に響く。
「…ってぇ」
「な、な、な、何言ってるんですか!獄寺さんの馬鹿!エロ!!信じられません、このエロ大王!!もう知りませんっ!!」
一方的に叫び一方的に部屋から出て行く姿に、打たれた頬を押さえて呟く。
「何だ、エロ大王って…」
10年前と全く変わらないハルに、思わず笑いが込み上げて来る。
「本当に、あいつはあいつのままだな…」
ソファに座り込むと、綺麗に畳まれているスーツが目の端に入った。
新品そのままを卸したとは思えない、着心地の良さそうな黒い衣装に目を細める。
ハルが何らかの手入れをしてくれた事は確かだ。
「さて…着替えるか」
破れた上着をソファの上に放り投げ、ゆっくりと立ち上がるとベッド脇まで歩み寄って行く。
新しいそれに手を伸ばしながら、如何にしてハルの機嫌を取るか、その事を考えていた。
そして目覚める。
暗い室内には雨の音だけが響き渡り、他には何一つ音が聞こえなかった。
「…夢、か」
呟きは雨脚の音に掻き消される。
稲光一つ無い暗い夜空が、裸の窓に映っていた。
「何で今更、あんな夢見んだよ…」
もう何ヶ月も前の事だ。
既に記憶から消え掛かって等しい、そんな他愛の無い日常。
上半身だけをベッドから起こし、ぐしゃりと前髪を掻き上げる。
深い息が自然と漏れた。
此処数日、連続でハルの夢を見ている気がする。
ハルを殺すと決めたあの日から、雨が止む気配は無い。
そして夜は必ず、今の様な夢を見てしまうのだ。
内容は様々だが、必ず彼女が出てきてしまう。
「…今は、余り見たくねぇんだけどな…」
綱吉を失い、ファミリー全体が揺れている今、一刻も早くハルを見つけて始末をつけねばならない。
だというのに、まるでその決心を揺らがせるが如く、ハルが夢に現れては話しかけて来る。
これは、自分の弱い心の表れなのだろうか。
「だからって、止められる訳がねーだろうが」
乾いた笑いを吐き出すと、獄寺は倒れる様にしてベッドへと身体を沈めた。
眠りが浅かったせいか、直ぐに睡魔が襲い掛かって来る。
「けじめは、つけねぇと…あいつの為にも、俺の為にも……な…」
自分への戒めの声は、段々と小さくなってく。
それに合わせる様に形を成して行く夢が、獄寺を再び眠りの世界へと引き込んで行った。