うしと見し世ぞ今は6










「…何処か行くの?」
コートを手にした瞬間、背後から声が掛かった。
「ツ…10代目、起きていらっしゃったんですか」
慌てて振り返ると、眠そうに目を擦っている姿が其処にあった。
「うん。…何処行くの」
繰り返される質問に、ハルは僅かに眉を寄せて綱吉を眺める。
「ちょっと買出しに行くだけですよ。直ぐに戻りま…」
「駄目」
ムッとした表情で、綱吉が言葉を遮る。
まるで子供の様な青年に、ハルは近付くと宥める様にその髪を梳いた。
綱吉は今や完全に、幼い子供へと逆行していた。
木蓮と呼ばれる人物を殺して以来、綱吉の記憶障害は一段と酷くなり、その行動も目に余り始めている。
少しでも気を抜けば勝手に屋敷を抜け出し、癇癪を起こす度に何かしら物を壊したり、小動物に手を掛けようとする。
それならまだしも、ついこの間はディーノやリボーンが危うく死ぬ所だった。
彼等でなければ、咄嗟に綱吉の放った弾丸を避けられなかったであろう。
今は綱吉から銃を取り上げてはいるものの、凶器となるのは何もそれだけでは無い。
屋敷の、そして部屋の至る所に幾らでもそんなものは転がっているのだ。
それこそ、何も無い空間に綱吉を押し込めない限りは、完全に安全とは言えないだろう。
…否、彼自身でさえ凶器になる可能性もある以上、傍に居る者は全員常に危険に晒されていると言っても良い。
本当に何もかも手に負えなくなった場合、最終手段として綱吉を監禁する以外に方法は無いだろうというのが、リボーンの決定打だった。
綱吉の異常を知っているのは、現在4名のみ。
リボーン、ディーノ、ハル、そして綱吉の担当医だけだ。
他の者は―――あの獄寺や山本でさえ、今はまだ知らない。
出来ればこれから先も知って欲しくは無かった。
だからこそ、これからどうするべきなのかを考えねばならなかった。
「治る見込みはありません。可能性は限りなく0に近く、絶望的とも言えるでしょう…」
そう断言した医者の言葉が、深く重くハルの心に圧し掛かる。
様々な死体を前にして、平然と此方を見ていた綱吉の姿が脳裏に蘇った。
「直ぐに戻ってきますから。だから、それまで良い子にしていて下さい。ね?」
「………」
ポンポンと頭をあやす様に叩き、余り刺激を加えない内にとそっと手を引く。
が、その手首を痛い位の圧力が襲う。
「…10代目?」
木蓮の事件以来、ハルは綱吉の事をそう呼んでいた。
綱吉を呼ぶ際、名前よりもこの呼び名に反応する事が多かったせいだ。
それはボスとしての立場が、今も尚、頭の片隅に残っているせいなのだろうか。
「駄目」
荒々しい口調と共に、綱吉は掴んでいた手首を強く引っ張った。
「――いっ…」
ビキ、と手首の筋が、急激な引力に悲鳴をあげる。
ギリギリと締め付けられていた其処は、横に吹っ飛んだ身体と共に解放された。
ソファに叩き付けられる様にして転がり、一瞬詰まった息に思わず瞼を閉じる。
再び開いた時、直ぐ目の前に綱吉の顔があった。
「10、代目…」
不意に男の容貌が綱吉の中に浮かび上がり、ハルの背筋にゾクリと悪寒が走る。
彼が今何を求めているのか、瞬時に解ってしまったせいだ。
「ひ…っ」
太腿をスカートの上から弄られ、ハルは怯えを含んだ目を綱吉に当てる。
「やめ、…やめて下さいっ。10代目…!!」
痛む手首を叱咤して綱吉の身体を懸命に押し戻そうとするも、遠慮無く体重を掛けて来る相手に敵う筈も無い。
もがけばもがく程、ハルの両脚は次第に両側へと開かれて行く。
徐々にズリ上がるスカートの丈が、焦りを色濃く映し出していた。
「やだ…っ、嫌です――10代目!」
ハルは何とか動く腕を振り上げ、綱吉の頬に平手打ちを食らわす。
乾いた音が部屋に響いた。
咄嗟の事で加減が出来ず、綱吉の頬は見る見る内に真っ赤に腫れ上がる。
「あ…」
それを見たハルが後悔する間も無く、男の目に狂気じみた光が宿った。
先程ハルが放った物とは雲泥の差もある、鈍い音。
顔に綱吉の拳が触れたその瞬間、ハルは完全に意識を失った。
瞬時にして塗り潰された黒い闇。
それが天井から照らされる光へとすり変わったのは、下肢を出入りする何かの感触と、裂けた秘所の痛みによって叩き起こされた時だった。
「………ぅ、あ」
意識が無くても声だけは上げていた様で、叫んでいたのか声がしわがれている。
「あ、…ぁっ」
獣の様な息遣いに視線を向けると、頭上に黒い影があった。
殴られた衝撃か、視界が未だ正常に機能していない。
「あぅ、あ…あ、…っ」
それでも完全に肌蹴られた衣服と、剥き出しになった両脚はぼんやりと捉えられた。
無理矢理に引き千切られでもしたのか、スーツの前部はボタンが弾け飛び、繊維があちらこちらに解れ綻びている。
何度も秘所を突かれ揺さぶられる度に、じっとりとした血液がソファを赤く染めて行った。
破瓜の証である筈のそれは、裂けた秘所から流れる血と交じり合って既に解らなくなっている。
ハルはただただ呻き声を上げながら、綱吉が満足するのを待つしかなかった。
「ゃ、あ…あ、ぅ…く」
「―――っ、ぅ」
ビュクン、と突如として内壁に当たる液体の感触に、ハルの身体がビクリと大きく震えた。
「…は、ぁ…」
何度か射精を繰り返し、綱吉が大きく息を吐く。
その頃になって、漸く視界が物の輪郭をまともに捉え始められる様になり、綱吉の顔も次第にハッキリと焦点が合い出す。
完全に顔が見えた途端、ポタリと何かがハルの頬へと転がった。
生暖かい雫は、続いてパタパタと上から降って来る。
「…10代目…」
ぼんやりとした視線をハルへと投げている綱吉は、目の端から次々と涙を溢れ流していた。
「……て」
まるで囁く様な小さな声音が、ハルの耳に突き刺さる。
「殺して」
聴覚では上手く聞き取れなかった言葉は、しかし唇の動きから簡単に読み取る事が出来た。

「…俺を、殺して…」

どうか。
これ以上俺が壊れてしまわない内に。
君を、仲間を、これ以上傷つけてしまわない内に。

恐らくは無意識の内、綱吉に残った最後の良心が零した言葉。
そしてハルへの乱暴に対する、深い後悔と謝罪。
それら全てが、涙と共にハルの頬へと落ちて来た。
「………ツナ、さん………」
処女喪失の痛み、下肢の痛み、頬の痛み。
それら全てを凌駕した心の痛みが、ハルを襲った。




どうすれば良いのか、解らなかった。
それでも今は其処へと向かうしかないのだ。
リボーンから与えられた、残された時間は、後たった1日しかないのだから。
一歩進む度に、飛び上がりたくなるぐらいの激痛が沸き起こる。
下肢を苛むそれを必死で押し殺し、ハルは単身徒歩で敵地へと赴いていた。
じわりと額に脂汗が浮かぶ。
自然と息が切れて、直ぐにアスファルトの路上へと膝をついてしまいそうになる。
本来であれば移動には車を使う所なのだが、これから向かう先が先なだけに、運転手を巻き添えにする訳にはいかなかった。
空から降り注ぐ太陽の光が、意識を混濁させようと眩いばかりに煌いている。
目的地は遥か遠い。
途中までは公共機関を使用したものの、それでも徒歩で向かうには果てしなく遠い距離に感じられた。
「………っつぅ」
ズキンと一層痛んだのは、秘所か頬か。
綱吉の拳を受けた頬には、一応ガーゼを当てて応急処置をしてはいるものの、その下はどす黒く変色しているだろう。
ボンゴレ関係者に傷を見咎められなかったのは、不幸中の幸いだった。
尤も、リボーンには気付かれてしまっているだろうが。
「…少し、休んで……」
歩道沿いに設置されているベンチへと近寄ると、クラリと鈍い眩暈が目の前を薄暗くした。
…脱水症状でも起こしかけているのだろうか。
そういえば、ボンゴレの屋敷を出る前から、何も口にしていない。
せめて水分だけでも取っておくべきだった。
そう後悔するも、直ぐ近くに購入出来そうな飲み物は見当たらない。
人の手によって植林された木々が、道なりに沿って生えているだけだ。
直ぐ背後に大きな木が植わっているお陰か、太陽の真下に居た時より幾分か気分が楽になった気がする。
片手を両目に当てて覆い隠し、静かに瞼を閉じる。
未だ涼しい風が、ひんやりと身体を冷ましてくれた。
「………ぅ」
目を閉じて直ぐに、ハルの口から小さく嗚咽が漏れる。
それに呼応するかの如く、涙が遅れて溢れて来た。
「…っ、………ひ、っ…く」
頭に浮かぶのは、綱吉の姿だけ。
全てに終止符を打つ事だけを、彼は望んでいる。
日々酷くなっていく己の行動が、微かに残っている彼の良心を苛んでいる事は、解っているつもりだった。
けれどそれはあくまで『つもり』にしか過ぎなかった事を、先程の綱吉が発した言葉で思い知らされた。
「…どう、して……」
ハルは尋ねる。
この世の何処かに居るかもしれない、目に見えない何かに。
それは神への呪いの言葉であったかもしれないし、こんな悲惨な地獄へと突き落とした運命への懇願であったかもしれない。
「どうして…こんな…っ」
嗚咽は悲鳴に変わる。
―――何故、あれ程までに優れた人間に、こんな酷い仕打ちをされるのですか…?
その疑問は決して晴れる事は無く、そして応える声も聞こえはしない。
ただ、自分自身の声が空回りしている事を実感するだけだった。
そしてそんな時、まるでタイミングを見計らったかの様に、一人の男が現れた。
後にして思えば、恐らく彼はその通り機会を伺っていたのだろう。


コツン

靴音が遠くから聞こえた。
散歩でもしているのか、のんびりとした足取りで段々と此方へ近付いて来ている。

コツン、コツン、コツン。

硬質な音からして、散歩人はブーツを履いている様だ。
一瞬女性かもしれないと思ったが、音の大きさや間隔から推測する体重や歩幅の長さに、恐らく靴主は男性だろうとハルは判断した。
こういった些細な事から相手を調べる術は、ボンゴレに所属してから自然と身に付いた技だ。

コツ…ン。

定期的な靴音は、程なくして聞こえなくなった。
それが止んだのは、ハルの丁度目の前。
微かに衣服の擦れる音と同時に、クスリと小さな笑い声が聞こえた。
「大丈夫?」
不意に掛けられた声は、やはり男性の物だ。
「…はい、少し休んでいるだけですので…」
慌てて服の袖で目元を拭い、顔を上げる。
背後に太陽を従えた彼は、全く見た事の無い顔だった。
顔立ちはかなり良い方だとは思う。
けれど、薄い笑みを常に湛えているその表情は、何処か不気味で冷たく感じられた。
「貧血かな。今日は日差しが少し強いみたいだから、気をつけないとね」
何でもない世間話の様に、男は空を仰いで太陽を見上げている。
けれど、その口調には微かな毒が感じられた。
何故かは解らない。
得体の知れない笑顔のせいかもしれないと思う先から、原因は別にあるのだと頭の奥で警鐘が鳴っている。
「………あ」
ふと、何かに気付いた様に、ハルの口から呟きが漏れる。
大きく見開かれた目が、微かな恐怖に引き攣っていた。
「ん。どうかした?」
空から視線を戻し、にっこりと目元を細めて笑むその姿に、ハルは恐怖の正体を知った。
――誰かに、似ているのだ。
それは誰か。
「貴方は…」
ベンチから立ち上がり、ハルは背後へと一歩退いた。
まさかこんな場所で出くわすとは…。
そんな思いが顔に出ていたのだろう。
「あぁ、自己紹介する必要もないかな。君はもう、僕の名前も知っているみたいだし」
「………白蘭、さん…ですね」
口にした名前に深められる笑み。
それは即ち、正解の証だった。







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