うしと見し世ぞ今は7









車内は大した振動も無く、滑らかに道路を走っていた。
此処数年で確実に劣化した路面には所々窪みも出来ており、一見しただけで真新しいと解るタイヤはその上を走っている筈なのだが、身体に伝わる衝撃は然程感じられない。
運転手の技量が良いのか、この車体が特別なのか。
車の持ち主がマフィアという点から見ても、恐らくはその両方であろう。
ハルは小さく息を吸い込むと、やや離れた位置に座る青年を見遣る。
広い車内で優雅に足を組んでいる彼は、膝の上にマシュマロの袋を乗せ、その中の一つを口に納めたところだった。
「どうしたの?」
直ぐ様返される笑顔に、思わず肩が揺れる。
小さい動きではあったが、間違い無く彼にも伝わった筈だ。
明らかな怯えと解る反応に、白蘭の口元が更に深い笑みを刻む。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。いきなり君を殺したりはしないから」
クスクスと零れる笑い声に、ハルの背中が微かに粟立つ。
いきなり、か。
そう前置きしているという事はつまり、そうでない場合は殺すと言っているのも同じだ。
尤も、殺される覚悟は、敵のアジトへと赴いた瞬間から出来てはいたけれども。
そもそも同じ車内の中に居て、その覚悟が無いという事自体がおかしい。
それでも恐怖が拭い切れないのは、人間としての生存本能のせいか、それともこの男の圧倒的な存在感のせいか。
「そうですね。…けれど、意外でした。貴方がたの拠点へ連れて行って下さるとは、思ってもみませんでしたので。それも、目隠しも無く」
「ん?だって、君も其処に向かっていたでしょ。僕に会わなくても、場所だって解ってたみたいだし」
「えぇ。調べましたから」
「だったら目隠しの意味なんてないし、それに向かう先が一緒なら車の方が早いじゃない?何よりそんな状態の女の子を歩かせられないよ」
ひょいと長い手が伸びて来るなり、頬に貼ったガーゼに優しく触れられる。
たったそれだけの動作だというのに、ハルは全く動けなくなった。
―――早い。
目にも止まらない動きだの、見えない動きだの、そんな例えが使える次元では無い。
ちょっとした仕草の気配が、彼相手では全く予測が出来ないのだ。
ある程度訓練された者であれば、目の前にいる相手が次にどんな行動を取るのか、その雰囲気や息遣い、目の動きから察する事が出来る。
勿論ハルも例外無く、そういった訓練は受けている。
だからこそ大抵の人間であれば、何事も先回りして相手の考えを読める様になっていた。
それが通じないのは、自分より能力が上の者だけ。
綱吉やディーノ、リボーンクラスの人間だけだ。
獄寺、山本クラスの対象が相手ならば、力こそ勝ち目はないものの、此方方面の能力はハルの方が明らかに勝っていた。
流石はミルフィオーレのトップと言うべきか。
ハルが良く知っているという点を差し引いたとしても、綱吉以上に男の能力は抜きん出ている。
固まるハルの表情と視線にも関わらず、白蘭はそっとガーゼを撫でて目を細めた。
「痛くない?」
「…平気です。こんな怪我は、日常茶飯事ですから」
「ふぅん?君みたいに可愛い子の顔に傷を付けるなんて、酷いヤツもいるもんだね」
「マフィアに顔の造作なんて関係ありません」
「そうかな。整った容貌をしている方が色々と有利だと、僕は思うけど」
含まれた揶揄の色に、ハルはハッキリと顔を顰めて視線を窓の外へと向ける。
左頬に掛かった白蘭の指先はそのままに、車外を流れる景色に無理矢理意識を投げた。
このまま彼のペースに乗せられてしまえば、口にすべきでない事まで引きずり出されそうだ。
相手の狙いは恐らくそれだろうが、そう易々と術中に落ちてやる程、ハルも馬鹿ではない。
黙してしまった姿に、白蘭はクスリと小さく笑いながら手を引っ込める。
それから目的地に着くまで、車のエンジン音だけが車内を占領していた。
窓から見える風景は、何時の間にか高級住宅が立ち並ぶ区域に差し掛かっている。
それに合わせる様にして、一目で防弾仕様と解る窓ガラスに反射する陽光は、先程から徐々に陰りを佩びていた。
それがまるでボンゴレファミリーの行く先を暗示する様にも見え、空が曇るにつれハルの胸の奥にも鈍い重りが積もって行く。
「着きました」
運転手が静かに一言だけを告げ、車を開けた場所に停める。
それまで通り過ぎた屋敷より一際大きい建物の前に、幾十人もの黒服の男達が整列して立っていた。
それぞれサングラスを掛けているせいで詳しい容貌は解らないが、その手が、足が、白蘭に牙を剥く者へと容赦無く叩き付けられるであろう事は容易に解る。
外側から開かれた扉に合わせて白蘭が車外に降り立ち、続けてハルも反対側から地上へと出る。
直ぐに両脇を2人の黒服に固められるも、白蘭がそれを片手を振って制した。
「あぁ、良いよ。彼女は僕の客人だから。三浦サン、おいで」
「…名前、ご存知でしたか」
苦笑して男達の間を擦り抜けると、その後ろを着いて歩いて行く。
「うん。何たって、ボンゴレの女性秘書さんだからね。あの沢田綱吉君の一番傍にいる人だし、当然」
真っ直ぐに廊下を進んでいく白い後姿を見据えたまま、ハルは小さく震える手を強く握り締めた。
蛇の腹の中を進む蛙にも似た心境に、精神が押し潰されそうになる。
その度に手の内に爪を立て、息一つ乱さない様に歯を食い縛って堪えた。
「あ、ねぇ君。正チャン知らない?」
廊下を行き過ぎる黒服に話しかける横顔に、ハルは背中にじっとりと汗を掻いて、自分の周囲に巡らされた監視の目を探る。
カメラ以外にも幾つかの視線が、ホールを抜けた瞬間から全身に纏わりついていた。
一つ、二つ、三つ…どうやらたった一人の人間に七人もの人件費が払われているらしい。
隅々まで絡め取られる様な嫌悪感にハルは舌打ちしたい想いを耐え、再び歩き出した白蘭に大人しく着いて行く。
「相変らず研究か。真面目だなぁ、正チャンは…」
楽しそうな声音で呟く白蘭は、更に数十メートル進んだ地点で立ち止まった。
それから何の前触れも無く扉を開き、白い室内へとハルを招く。
部屋の中には、様々な資料を机の上に乗せ、椅子に座ったまま頭を片手で押さえている青年が一人。
暗い表情で資料を捲っていた彼は、突如開いた扉と白蘭の姿を目にするなり、仰天した様子で勢い良く椅子から立ち上がった。
「白蘭サン!?どうして此処に…」
「久しぶりー。ちょっと用事があってね、戻って来たんだ」
片手をひらつかせながら、白蘭は僅かに身体を反転させて背後にいるハルを呼んだ。
白蘭より斜め後ろに立つ異邦人に、部屋の主と思しき青年の目が訝しげに注がれる。
「…その人は?」
「ん、三浦ハルさん」
飄々と紹介する白蘭に青年は一瞬呆れた表情になるも、それは直ぐに険しいものへととって変わった。
「三浦……ボンゴレか!」
凄まじい気配を瞬時に放ち、青年は両手を机に叩き付ける。
その気迫に、ハルの全身が一気に逆立つ。
表向きは平然と青年の怒気を受け止めるも、間に白蘭がいなければ無事に立っていられたかどうか怪しい。
そのぐらい、対峙した青年の顔は憤怒に染まっていた。
「そうそう。その三浦ハルさんだよ。正チャンが今一番、知りたい情報を持っている人。多分、三浦サンも同じ用件で此処に来たんだと思うけど」
ね、と同意を促される様に微笑む白蘭に視線は向けず――否、向けられず、ハルは小さく頷いた。
「はい」
冷静さを装って出した声は、自分でも思った以上に落ち着いていた。
その事に安堵しつつも、何時刃を向けてくるか解らない緊張感に、自然体のまま構えを取っておく。
「そうですか。なら、話は早い。早速聞きましょう」
白蘭の変わらない態度に落ち着いたのか、青年は直ぐに我を取り戻して机に着いていた両手を離す。
しかし両目に揺れている憎悪を隠さず、ハルにヒタリと視線を宛てたまま、彼はゆっくりと口を開いた。
「三日前、貴方がたボンゴレの屋敷まで赴いた、木蓮はどうしました?」




紙袋を両手に抱えた珍しい姿に、山本は軽く吹き出して片腕側の荷物を引き受けた。
「んだよ、何笑ってんだてめー」
「いや、悪い。獄寺がハルの為に買い物をするってのが珍しくてな」
不機嫌そのものな顔色が、こんな光景を見つかった気恥ずかしさのせいか、僅かに朱に染まっている。
獄寺自身でもそれが解っているのだろう、直ぐに怒声が山本の耳を劈いた。
「うるせぇ!あの馬鹿が最近忙しそうだから、仕方なく俺が行ってやってんだろーが!!何で俺がこんな事…あぁぁ、畜生」
「そんなに嫌なら、お前の部下に行かせりゃ良かったんじゃねーか?」
「あいつらじゃ、ハルの好み解んねーんだよ。くそっ、雲雀の野郎もこういう時に居やがらねぇし」
文句を垂れ続ける相手の言葉に、山本は驚いた様に片眉を上げてみせる。
「雲雀?あいつ、ハルの好みなんて知ってたのか。これ、紅茶と菓子だろ?」
「あぁ。ハルは良く、ティータイムだとか抜かして雲雀と茶を飲んでたからな。姉貴もフゥ太も他の連中も、殆どが出かけちまってる事が多かったし」
「そういや、俺も何度か誘われたな。結局仕事で行けなかったが…お前は行ってねーの?」
「俺だって暇じゃねーんだよ。ミルフィオーレの事だってあんのに、茶なんて飲んでる場合じゃねーだろが」
紙袋と服の擦れる音に負けじと聞こえる声が、苛立ちを帯びているのが解る。
それは照れ隠しのものではなく、会話に出てきた雲雀のせいだろうと山本は推測した。
何だかんだ悪態をつきながらも、獄寺はハルに仲間以上の意識を持っている。
ハルの方は綱吉に昔も今も変わらぬ思いを抱いている事から、彼がその事を口にした事は一度もないけれども。
山本としては獄寺を応援してやりたいとは思うものの、ハルも綱吉も同じ位大切な存在なので、そう簡単に彼だけの背中を後押ししてやる事は出来ない。
ましてやそんな事をしようものなら、下手せずとも獄寺お得意の爆弾が飛んで来る事だろう。
「ま、仕方ねーよな」
色恋沙汰に部外者が余計な口を挟むべきではないと、余りそういった方面に縁の無い山本は、完全に傍観の姿勢に徹していた。
「それで、今はそのハル自身が忙しいって訳か」
「あぁ。何でも何処かに行く用事があるとかで、今日は外に出掛けたぜ」
ハルがティータイム部屋と称している一室の扉を開き、獄寺は中央に置かれたテーブルへと紙袋を放り出す。
中で紅茶葉の敷き詰められた缶が互いにぶつかり合い、ガシャガシャと盛大な音を立てた。
その内の幾つかが紙袋から転がり出て、テーブルの上に横倒しになる。
「…ハル一人で?ツナは屋敷にいるだろ?」
山本もまた紙袋をテーブルの上にそっと置くと、一向に直す気のない相手に代わって缶を丁寧に立てて行く。
その中の一つを片手に取り上げ、底に貼られている白いラベルをじっと見下ろしながら問い返すと、獄寺は軽く肩を竦めた。
「みたいだな。俺もここ3日位ハルとは会ってねーから良く知らねーけどよ。かなり慌てて出て行ったみてーだし、急用だったんじゃねーか?」
「………急用」
ソファに座る獄寺を視界の端に、山本は眉を寄せて小さく呟く。
「どうかしたのか?」
「いや…何でもない。ただ、ハルが紅茶を切らせるのは珍しいと思ってな」
手に取っていた缶をテーブルへと戻し、苦笑を浮かべて首を緩く振る長身の姿に、今度は獄寺が口を曲げる。
「そーか?あいつ結構ヌケてるとこあるぜ」
「ま、そうなんだが…」
敢えてその点は否定せず、山本もそれ以上は胸の内に沸いた疑問を口にせずにおいた。
どうせ未だ推測の段階を出ていないのだ。
そんな状態で獄寺に尋ねてみたとて、状況は改善されないだろう。
寧ろ悪化する可能性の方が高い。
何れは綱吉の口から詳しい説明が聞けるだろうと、山本もまたソファに腰を落ち着けた。
「何だ、てめーも今日は暇なのか?」
「あぁ。もう一月休みが無かったからな。今日はそれ程大した仕事もないし、ゆっくりさせて貰う予定だ」
背凭れに両腕を掛けて笑う容貌に、獄寺は天井を仰いで息を吐く。
「そーいや俺も、ずっと休みなかったな…。せっかくの休日も、馬鹿女のせいで半日も潰れちまうしよ」
ついてねぇと愚痴りながらも、それ程悪い気をしていないのは、獄寺の表情を見れば解る。
自分達以上にハルが休みを取れていない事は、誰の目から見ても明白だったからだ。
彼女は暇を見つけてティータイムを取っていたが、ほんの30分そんな休憩を取るだけで、後はひたすらに働き通しだった。
そんなハルの手伝いが少しでも出来るというのは、獄寺にとって嬉しい事なのだろう。
細められた目が優しく和んでいる様に、山本も自然と微笑んでいた。
穏かな空気が漂う室内に、しかし無愛想な顔が一つ増えたのはその三分後。
「三浦知らない?」
開口一番に挨拶より疑問を口にしたのは、この部屋に最近良く出入りしている雲雀恭弥だった。
「知らねー。出掛けたみてーだけど…ってか、てめぇ今まで何処行ってやがったんだ」
「出掛けた…?あの顔で?」
思い切り質問を無視する雲雀に、獄寺の額に青筋が浮かび上がりかける。
しかしその台詞に引っ掛かりを覚え、今度は獄寺が顔を顰めて尋ね返す。
「あの顔って何だよ」
「君、見てないの」
「だから何をだっつーの」
「…知らないなら良い」
一方的に話を打ち切ると、来た時同様唐突に、雲雀は踵を返しそのまま部屋から出て行った。
「おいてめー、待てこのっ。妙な事言って逃げんじゃねぇ!」
気色ばんでソファから立ち上がる獄寺を、山本が宥める様にして片腕を掴んで止める。
「まーまー。ハルが帰って来たら聞けば良いだろ?雲雀に聞いても、あの様子じゃ答える気はなさそうだしさ」
「でもあの野郎…」
「せっかくの休日だ。争い事起こして潰すより、のんびりして疲れ癒しておいた方が良いんじゃねーか?お前も、明日からまた外国飛ばなきゃいけねーだろ」
「……ちっ」
山本の言葉が功を奏したらしく、獄寺は再びソファの上へと身体を戻す。
実際に疲労が溜まっていたという事もあったのだろう。
深く疲れた息を吐く仲間の為に、山本は立ち上がるとテーブルへと向かった。
「なぁ、獄寺。お前は何飲みたい?」
「てめーが淹れんのか」
「偶にはな。ハルには負けると思うけど、そう簡単には不味くはならねーだろ。紅茶だし」
「ふん。…じゃ、ダージリン」
「了解」
紅茶の缶を探している相手の姿を眺め、獄寺は再度天井を仰ぐと、目の上に掛かっている髪をかき上げた。
「あの馬鹿。帰って来たら絶対文句言ってやる…」
ボソリと呟いた自分の言葉に多少溜飲が下がり、獄寺は片手を目の上に置いたまま目を閉じた。
部屋にふわりと漂う紅茶の匂いが、此処数日の疲労を癒してくれる気がする。
…偶にはハルのティータイムに付き合うのも、悪くはないのかもしれない。
そんな事を考えながら、山本が紅茶を運んで来るまで、獄寺は目を閉じて軽い仮眠に入った。


ハルはその日、屋敷へは戻って来なかった。
彼女がリボーンの元へ報告を届けに来たのは、それから一週間も経ってからの事。
そして、裏切り者と呼ばれるのは、それから更に二ヶ月後の事だった。







戻る   8へ